「う…わぁ…。うわぁ…」
「地味に傷つく反応だなぁ」
とあるバイトの日。
俺は歩き慣れた道を通り、キシキシと音が鳴る急な階段を上って合鍵で一つ目のドアを開け、応接室から更に奥へと続くドアの取っ手を掴んだ。
入る前に一応「入りますよ」と確認をすると、中から「はぁいどーぞー」という何とも気の抜けた、そして聞き慣れた声が聞こえてきたので、俺はいつも通りその部屋へと足を踏み入れたのだった。
昨日片付けたばかりなのに何故かまた少し散らかっている。溜め息を漏らしつつ目線を上げると、そこには。
「だってそんな、うそだ、詐欺だ」
「そんなに信じたくないのかりょうくん」
「あっ、分かった!それも変装だ」
「自前ですけど?」
そこには、着替えの途中らしい透羽さんが居た。
お客さんが居ない時に限って「タカハシさん」を脱ぎ捨て、本来の姿に戻る不思議な俺の雇い主。髪色も瞳の色も顔立ちもその人そのもので、今日はお客さんが来ない日なのだと分かった。
彼は上半身裸の状態で、ただでさえ白い肌に真っ白いシャツを着ようとしている途中だったらしい。そんな状態でよく俺を部屋へ招き入れたものだ、なんて呆れる前に視界に飛び込んできたのは…彼の身体つきだった。
「そうまでして見栄を張りたかったんですかとわさん…」
「そうまでして信じたくないのかいりょうくん…」
「だって、何か、何か…」
「裏切られた気分?」
「くっ…!」
そんなに俺の反応が面白いのだろうか。
シャツを着ようとしていた手を止めたまま、真っ白いその人はにやりと微笑んだ。
埃っぽい窓から差す柔らかな光が、その身体を照らす。信じがたいことに、いや、信じたくないことに、透羽さんの身体は想像していたよりも筋肉質だったのだ。
どうやら彼は着やせするタイプだったらしいが、それにしたってあんまりである。
いつもゆるゆるで大きめの服を着ていたせいか頼りなく薄っぺらく思えていたその体躯は、意外にも筋肉の所在が分かる程には鍛えられていた。
…シックスパック。
別にそこまでではないけれど、力を入れなくても薄っすらと割れた腹筋が色白の肌に遠慮がちに影を作っている。
普段長袖が多い彼の肩や上腕を見る機会はほとんどなかった。
けれどよくよく見ると腕も肩もそれなりに程よく筋肉がついていて、無駄な脂肪もなく、美しい彫刻のようだった。
服を着ないのは最早わざとだろう。
透羽さんはシャツを手に持ったまま、ドアの前で固まる俺に一歩ずつ近づいてくる。
顔を見なくても手に取るようにその表情が分かってしまうのがまた憎らしい。
いやに艶めかしい声が鼓膜を刺激する。
「見惚れちゃったとかじゃないんだ」
「くっ…認めない。絶対もっともやしだと思ってたのにこんな仕打ち…認めない…」
「………もやし。というか、仕打ちって…ぶふっ」
「もうっ、早く服着てくださいよ!嫌がらせですか」
「いや、まぁちょっと、そんな反応されると思わなくて…くっくく…」
どこがそんなにツボにハマったのだろう。
シャツを着ないままの艶やかな身体は、小刻みに震えて笑いを噛み殺していた。その笑いを全然隠せてやしないのがまた腹の立つところだ。
隠す気もないのだろうが。
「早く、服を、着ろ」
「分かった、分かったから…ふっ、くくっ」
「何でそんな笑うんですか」
「だってかわい、おもしろいから…ふふふっ」
「服っ!」
さっさと着ろと何度も言っているのに未だに上半身裸のままでいる彼が、手を伸ばせばすぐ届くところまで近づいてきた。
そのまま頬を膨らませている俺へと向かい、両手を広げてふんわり微笑みかけてくる。もちろん裸のままで。
「ねぇ、このまま抱き締めたいって言ったら怒る?」
「背中にめちゃくちゃ爪を立ててやる」
「それはそれは…。ヤバいなぁ…色んな意味で」
「は?」
色んな意味って何だ?と困惑する俺の返事を待たずに、透羽さんは俺を包み込むように覆い被さってきた。
思わず身体がぴくりと強張ってしまって、持ってきていた差し入れの紙袋が床にボトッと落ちてしまった。
まだいいって言ってないのに。
この人は本当に、自由過ぎる。
「りょうくんさ、」
「な、んですか」
「…背中に爪、立ててくれるんじゃないの?」
「何言って、というか、服っ!」
早く服を着ろと。
どれだけ抗議しても楽しそうに腕の力を強められるだけだ。
俺が身動ぎする度に、クスクスと耳元で聞こえてくる幼い笑い声。その幼さとは裏腹に、俺を包み込む身体はずうっとしっかりしていて大人の色気を隠そうともしなかった。
聞いてない。
この人がこんな、こんな身体を隠し持っていたなんて聞いてない。
俺と同じ…いや、違うけど、俺は全然全く微塵も違うけど、普段のゆるゆるでふわふわな透羽さんを見ているとこの人はもっともや…虚弱な感じの体型だと思っていた。
襟元の緩い服の間から見える鎖骨も、ほっそりとした手首も、喉仏が主張する首筋も…。それらから連想される身体はまさに今体感している実物よりももっと、もう少し頼りないものだと思っていたのに。
それなのに何だこの安心感。
何だろうこの裏切られた感じ。
確かに彼に抱き締められた時はいつも、どこか安心していたけれど。
今はそういうことじゃ、なくて。
服を通さず直接触れる真っ白い肌は心なしかいつもより温かく、きめ細やかで触ると気持ち良さそうだった。
だからするりと手を伸ばしてしまった。
背中に、意外にも弾力のある広背筋に、突き出た肩甲骨に。指を滑らせると、耳元でまた擽ったそうに彼が笑った。
その声とも言えない吐息がやけに艶めいていて、意思とは関係なくどきりとしてしまう。
いつもの透羽さんよりも匂いが濃い気がする。
温度も匂いも、抱き締めてくる力も何もかもが…何か、いつもと同じなのにどこかが違う気がしてしまう。
服を着ていないからか。それだけでこんなにも色気が駄々漏れになってしまうものだろうか。
俺が勝手に緊張しているだけ?そうか、そうかも知れない。そうであって欲しい。
「きみは…」
「んっ」
「無防備だねぇ」
「ちょっ、と…!耳は…」
「ふっふふ」
「だからさっきから、」
笑い過ぎだという抗議の声は、彼の口の中に吸い込まれてしまった。
後頭部にくしゃりと差し入れられた骨張った手が、ゆるゆると俺の髪を梳いては撫でる。
やっぱり卑怯だ。
そんな風に触れられてしまえば力も抜けてただ身を任せるしかなくなってしまうのに、それを分かっていてやっている気がする。
…くそぅ、ムカつく。
ぼうっとする。頬に自然に熱が集まって、生理的な涙が視界をぼやけさせてしまう。
自分以外の温度が、頭を、腰を、口の中を優しく撫でていく。
一瞬その優しさが強く引き寄せるような強さに変わって、食われるんじゃないかと本能的に思ったところでその熱は離れていってしまった。
「おれ、あと数ヶ月もつかな………」
「は、はぁ…。………は?」
「や、なんでもないです」
長い抱擁と呼吸を分け合うような口付けから漸く解放されたと思ったら。
何故だか透羽さんは思いっ切り顔を背けて意味不明なことを呟いていた。
俺の方を向かないまま、やっと服を着てくれた。向けられた背中の真っ白く滑らかな肌がするりと薄い布一枚で隠されてしまう。
天使みたいだとファンタジックな例えが浮かんだのは秘密にしておこう。
あんな獰猛な天使がいてたまるか。
腹筋が割れている天使ってなんか…なんか。
「ていっ」
「あたっ、なに、なに」
「俺も絶対鍛えてやる…。まだ背も伸びるかもしんないし、とわさんよりムキムキになる」
「ちょっと、そのチョップ地味に痛い、けど…ふふっ。そっか、がんばれぇ」
「絶対思ってない、てやっ」
「応援はしてるよ、一応ね」
「一応ってなんすか」
「別にマッチョでも構わないけど、うん、りょうくんはそのままでいいよ」
「今誓った。絶対ムキムキになる」
俺がそう宣言すると、透羽さんはふんわり微笑んで「そっか」と頭を撫でてきた。
欲が見え隠れしていたさっきまでのとは全然違う、まるで幼い子供にするみたいな仕草だ。
撫でられながら、ふと思う。
このひとは、一体どんな風に生活してあんな身体を手にしたのだろう。
探偵家業は多少の危険もあるのだといつか言っていた。もしかしたら、そういうのと少しは関係があるのだろうか。
そう言えば初対面の時、このひとは動き辛いであろう格好でも見事な回し蹴りを披露していたなぁ。
それまでの生活で、もしかしたら、ただの俺の推測だけど、透羽さんは多少なりとも護身術のようなものを身に付ける必要があったのかも知れない。
「タカハシさん」もその一部なのかも知れない。そこまでは分からないけども。
もしこの仮定が当たっていても外れていたとしても、俺も鍛えていれば多少は役に立てるだろうか。
がっちりマッチョは厳しいかもしれないけどせめて気持ちだけでもこの人の役に立てるように、もう馬鹿にされないように…。
せめてそれくらいはやってみようかと思ったのだった。
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