――これより少し時間は遡る。
中天に昼の太陽が昇ってより少し後、昼餉の時間を半時ほど過ぎた頃のこと。泣く子は黙り笑う子さえも泣き始める、天下に悪名高いチンピラおまわりさん24時こと、真選組屯所は俄かに浮き足立っていた。


「…ひーじかーたさーん」


間延びした声が中庭を臨む副長室に響く。縁側へ続く障子にもたれ掛かりながら声を発したのは、真選組に所属するにはやや若年の亜麻色の髪を持つ少年であった。


「…んだよ」


対して苦々しげに言葉を返したのはその部屋の主でもある、真選組副長こと土方十四郎である。巷を行けば世に蔓延る攘夷の徒から恐れられ、また可愛らしい女性たちには黄色い歓声を浴びせかけられる容貌の持ち主であるその人物は、しかし現在これ以上ないほど盛大に顔を顰めていた。


「うわっ何その顔ヒくわー。殺人鬼だってもっと優しげな顔してらァな」

「喧嘩売りに来るほど暇なら仕事しやがれ。午前中お前が起こした器物破損の苦情が立て続けに届いてんだ、自分のケツくれェ自分で拭きやがれ」

「嫌でィ」


突き出した書類には頭が痛くなるような陳情が列挙されていた。それを目前に軽やかな一言を放った少年――一番隊隊長沖田総悟に土方は鋭い眼光を向ける。とは言えそんなものが今更相手に効くとも思っていなかったが。


「大体世の中刺激が足りねんでさ。最近は攘夷志士どももとんと静かになっちまってるし、体が鈍ってしょうがねェ」

「朝の稽古を公然とサボってる野郎が何ほざいてやがる。別にいいだろうが、それこそ世間が望む平和が訪れてる証拠だろ」


言いつつ土方の眉間の皺は相変わらず取れそうにない。目に見えて暴れたりなさそうな上司はここ最近でまたニコチンの摂取量が増加した。それにどうこういうつもりはない沖田だが、はっきり言ってこの部屋の煙たさと土方の煙草臭さにはほとほと閉口している。


「そう言うアンタが一番危なそうに見えんのは俺だけですかね」

「バカ言え、俺ほど温厚な人間が他にどこにいる」


冗談とも取れない発言に沖田は目を眇めた。…何この痛い人。救急車と葬儀屋だったらどっちの方が早く来てくれるかな。


「この部屋も煙くて死にそうでさァ。アンタが一人寂しく死んでいくのは構いやせんが、未来ある若者に副流炎の恐れを抱かせるのはやめて下せェよ」

「…余計なお世話だ」


沖田のみならず、長年傍に寄り添ってきた真選組局長である近藤にも忠告されたばかりの土方は、罰が悪そうに口に銜えていた煙草を揉み潰した。同時に素晴らしいバランスで均整を保つ灰皿からごそりと灰の塊が零れ落ちる。


「それはそうと、今日は一段とバカ共が浮ついてやがるようですが」

「あァ?」


零れる吸殻を横目で見やりつつ、沖田は明るい表廊下へと目をやった。明かりを灯さぬ副長室から覗く外界はまるでそこだけライトアップしたかのように鮮やかに輝いている。そよぐ初夏の風は既に少しだけ生温さを孕んでいるが、伸び始めた前髪を揺らすそれに二人はふっと目を細めた。
遠回しに沖田が言うのは配下の隊士たちのことである。朝っぱらからそれぞれがそわそわと落ち着きをなくし、まるで子供のように何かを待ちわびた表情を見せる。イイ年をした屈強な男たちがするには些か胸焼けを起こす光景であったが、それも相俟って気にせずにはいられない程度の騒ぎとなっていた。


「気温が上がってノーミソでも湧いてんじゃねェのか。騒ぐようなら根性焼きの一つもかましてやれ」

「おやおや、それが副長の台詞ですかィ?こりゃ失墜の日も近いと見たな」


軽口を叩くも土方は背中を向けるばかりで応対しない。戸口に背を凭れたままの沖田はその姿に目を細めさせると、とっておきの玩具を取り出すかのように楽しげな口調でこう言った。


「詳しくは知らないんで小耳に挟んだくらいですがねェ――どうやら今夜花街に繰り出すモンがいるだとかで」

「………」

「それもただの歓楽街じゃねェ。噂じゃ芳町の方だってんだから、隊士共も色めき立つってもんでしょうや」


――ねえ?
素知らぬ振りで話題を振れば僅かに土方が身動ぎする。それは大きな変化ではなかったが、長年その背中を見てきた沖田にとっては十分なほどの動揺だった。


「…どこからそんな噂が湧いて出たのかは知らねェがな、局中法度をよく見ろってンだ」

「つってもその法度だって隊長以上の者には外に住まいを持つことを許してるんだから、考えようによっちゃァ女遊びを容認してるも同然じゃねェですか」


屁理屈を返す沖田に土方は眉間の皺を一層濃くする。ともすれば手に持つ書類くらいは挟めるんじゃないかというほどの深い溝に、沖田は感慨深げに小さな歓声を上げた。


「まあアンタみてーな堅物じゃ、女の方が願い下げだろうがねェ」

「誰が俺の話をしたよ殺すぞコノヤロー。大体そんな暇があるなら仕事しろ仕事。こちとらそんな話に構ってやるほど時間があるわけじゃ…」

「トシィィィ!今日の夜のことなんだけどさァ、やっぱり舟盛りも注文すべき!?」

「「………」」


と、その時聞こえてきた大声に土方は思わず煙草を落とす。責めるような沖田の視線が背中に痛い。


「…近藤さん、そういうのは内々にといつも言ってるはずなんだが」

「ガッハッハ!だァって接待なんて久しぶりだからさァ!テンション上がっちゃって!」

「へェ〜。芳町に行くのは接待のためだったんですかィ」

「あっ」


誰よりも浮かれた様子で部屋にやってきた局長こと近藤は、どうやら沖田の存在に気付いていなかったらしい。眇められた双眸に冷や汗を垂らす上司に溜息を吐いて、土方は書類の上に突っ伏した。


「…いやあの、これはその…違くて、ね?」

「水臭ェや近藤さん。血盟の同士である俺には話せないってンですかィ」

「うう…っ!そ、そういうわけじゃなくて…!」


一回りも年齢の違う相手に詰め寄られて近藤は既にタジタジだ。助け船を出そうにも近藤は墓穴を掘るばかりで、土方は「だから内密にと言ったのに」とばかりに頭を抱えた。


「…今夜暮れ六つに芳町で接待の仕事が入ってる。相手は幕臣の一人で錫高 堀衛門(すずたか ほりえもん)と、その取り巻き連中だ」


渋々口を開く土方に、沖田はその大きな瞳をぱちぱちと瞬かせる。


「ふうん…でも何だってウチがそんなお偉方の接待なんざしなきゃならねェんですかィ?腐ってもこちとら世の平和を守るおまわりさんだろィ」

「だからだよ。向こうさんはどうやら生粋の箱入りってヤツらしくてな、幕吏としての地位もほとんど金で買ったようなもんだ。野郎から見りゃ俺たちゃ興味の的なのさ」

「成程ねェ。奴らからしてみりゃこっちは体のいいアクションスターってわけかィ。幕府のためにエンヤコラやってるっつーのに、世知辛い話だねィ」

「こら総悟!」


土方の説明に沖田が軽く溜息を吐き、それを近藤が嗜める。沖田は「へいへい」と肩を竦めたが、その思いは正直なところ土方も同じであった。何が悲しくて警察たる自分たちがお偉方に愛想を振りまかねばならないのか――内心そんなことばかりを思っていたが、文句を言ったところで状況が好転するわけでもなし。故に黙って受け入れるしかないのが現状なわけであって。


「いくらノータリンのアホ親父だからとは言え相手は幕府の高官だからな」

「とっつぁんから直々に、俺たち二人にオファーが来たってわけだ」


仕方なしという風情の近藤に沖田は不満気な表情を見せた。その横で土方は新しい煙草に火を灯し、未だ紫煙の名残が燻る天井に向けてふうっと息を吐き出す。


「つっても芳町たァ思わなんだがなァ」

「ああ…よもや生涯のうちにそんな場所に行くことになるとは想像もしてなかった」


近藤の苦笑に土方は心からの溜息を返した。考えただけでも鳥肌が立ち背筋が冷たくなる。無意識に両腕を擦った土方に、沖田はニヤリと歪んだ笑みを向けた。


「いやいや土方さん。意外と野郎の方が具合がイイってこともあるらしいですぜ」

「…はっ?」

「同性ゆえにイイとこは全部ご存知ですし、その上ガキの頃から仕込まれてるとありゃァ一瞬で昇天しちまうこと請け合いだそうで」

「…何でそんなこと知ってる」

「風の噂でねィ」


飄々と受け答える沖田に土方の顔色は青褪めるばかりだ。漠然と避けていたものをその言葉によってありありと想像してしまい、吐き気すら催す勢いである。


「それにあそこは大した規模じゃァねェが、昔ながらの芝居小屋が並んで割合に盛況らしいでさ。店の数こそ少ねェが、中でも笹舟っつー陰間がまた色っぽいらしくて」

「だァァァァ!!!もうお前はちょっと黙れ!300円あげるから!」

「嫌でィ」


いつもながらのやりとりに近藤が笑い声を漏らす。
常に仕事には私情を切り捨て真面目に取り組んできた土方であったが、今回ばかりは全力で遠慮したくなってきていた。ただでさえ気が乗らないというのに、クソジジイの道楽に付き合ってまで男に酌をされねばいけないのか。考えたら負けだと分かっていても考えてしまう。既に軍配は上がったようなものだった。


「まあまあ、接待と言ってもただ酒を呑んで少し話をするだけだ。床を共にするわけでなし、あまり深く考え込むな」

「…アンタはもう少し物事をよく考えてくれよ」


既に涙目の土方だったが、今更断れるとも思っていない。さり気なく沖田に擦り付けてやろうとも考えたが、彼は未成年であったし野放しにしたら何をしでかすか分からない。その他の人間でも角が立つだろうしとあれこれ考えた結果、結局自分が行くしかないという結論に至ってしまったわけだ。本当に損の多い立場である。


「ま、精々ケツを掘られねぇよう気をつけなせェ。堀衛門だけに」

「上手くも何ともねェからそれ」


全く心のこもらないエールと共に肩を叩かれる。既に短くなった煙草を灰皿に押し付けると淀んだ空気が一層濁りを増して、それが自分の心中を表しているようで一層気が重くなった。

見上げた空は少しずつ色を濃くし、どやどやと巡察を終えた隊士たちが門扉をくぐるのが見て取れる。
時は八つ時にかかる頃。土方の憂鬱は一層重々しくなるばかりであった。



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -