――…へ?
聞こえた耳慣れた…否、ある意味でとても耳慣れぬというか、この場にいるはずのない人の声が聞こえた気がしてあたしは思い切り顔を上げる。しかしやはり不明瞭な視界のせいでその姿を捉えることはできず、幻聴だったのかと首を傾げるばかりだ。


「どこ見てんだクソガキ。頭のついでに目も悪くなったか?」

「えっ、なっ、どこ――」


反響するかの如くそこここから聞こえるその声に、あたしはきょろきょろと周囲を見渡す。移動する声と共に一拍遅れて呻き声が聞こえるのだから、何やら凄く異常な状況だ。
お化け屋敷にでも迷い込んだかのような不思議な気分になり、それを紛らわそうとふらふら立ち上がる。一体どれだけ煙幕を広げたのか、まだ晴れそうにない煙の壁に必死に目を凝らせば、そこに翻る数匹の蝶の群れをみた――ような気がした。


「どこ、どこですか高杉さ――」

「不用意に呼ぶんじゃねェよ」


ばさり。
風を孕んで布がはためく音がして、目を見開くあたしの前に舞い降りる暗褐色の大輪の華。…などでは勿論あるはずがなく、抜き身の刀を右手に携え、まるで傅くかのように現れた高杉なのであって。


「…た、高…じゃないですえーと」


驚きのあまり再び名前を口にしようとしたら思い切り睨まれた。二日間離れていただけだというのに何やらとんでもない恐怖を感じる。あたしこの人の下にいたらそのうちストレスで胃に穴とか空くんじゃなかろうか。


「御託はあとだ。まずはここ出るぞ」

「えっ、あの、でもまだ「待ちやがれ」


睨んだついでにつかつかと歩み寄ってきて、その勢いのままに腕を取る高杉。色々と混乱していて状況についていけないあたしがあたふたと足取りをもたつかせると、何やら物騒な音が耳元で鳴った。


「…チ」


小さな舌打ち。止まった歩みに恐る恐る視線を上げればそこには輝く白刃が。
喉まで出かかった叫びを何とか飲み込んで刀身の伸びる先を見やる。するとどうやら無事だったらしい土方がそこにはおり、今まさに高杉の首を取らんとばかりに眼光を輝かせている。
一方首筋に刀を当てられる高杉の表情は読めない。普段通り飄々としているようにも見えるが、え、ちょっとこの人状況わかってるよね?


「やっと尻尾出しやがったな高杉。何のつもりか知らねェが、敵である俺を捨て置こうなんざツレねェじゃねえか」

「…はっ、自分が取るに足らねェ雑魚と見なされたとは思わねえのかィ副長さん」


空気がこれ以上ないほどに張り詰めている。普段何気なくそこにあるものだけに、こうして空気そのものが肌に痛い時があるのだとは知らなかった。
若輩者にしてはそれなりに修羅場を乗り越えてきた自負もあったのだけれど、こうして本物の殺気に当てられることは早々なかった。思わず背筋に冷たいものが走るのを感じる。


「随分な口を利くじゃねえか。今の状況見えてンのか?」

「例え両目を失おうとも俺ァ考える機能まで失くすつもりはないんでね」

「けっ、そーかィ」


物騒な会話が物騒な雰囲気のまま続けられ、しがない一般人のあたしはもう気絶したいくらいの心境だ。しかし逃げ出そうにも入り口側に土方はいるし、そもそも高杉が左腕を目一杯に掴んでいるので身動きすらろくろくとれたものではない。
どうしようかと思案していると、ふと視線を投げかけられているのに気付いた。何だろうと考えもなしに顔を上げれば、読み取りづらい感情を浮べた土方と目が合って。


「…やっぱり高杉と繋がってやがったか」

「…あ、」


眉を顰め歯噛みするような言い方をした土方に、思わずどきりと肩が跳ねた。
確かにだまそうという気がなかったわけではない。第一に性別や身分、名前すら偽っているのだから潔白だなどと今更言える立場ではない。けれどさっきまで談笑すらしていた人に敵意を持って睨まれると、そこは人情として辛いものがあるのだ。とりあえず何と言ったらいいのかわからなくなるくらいには。


「…あ、あの、土方さ「気安く呼ぶんじゃねえよ」


名前を呼ぶことすら遮られて心臓がずきりと痛んだ。こんな視線を浴びせられてごめんなさいなどと誰が言えようか。謝罪の言葉すら罪のような気がして、あたしは唇を噛んだまま俯くしかなかった。


「…は、ふられたみてェだな」

「てめェも少しは黙りやがれ。ガキすら手駒にするたァ、鬼兵隊はよほど人材不足と見える」

「クク、まあ否定はしねえがな。ただ誤解してもらっちゃァ困るんで言っとくが、こいつは俺が指示したわけじゃねえよ」

「…は?」


肩越しに交わされる会話に嘲笑が混ざり、土方が思わずといった風に眉を顰める。


「何に不満があったかは知らねェがな。勝手に飛び出して勝手に遊んでたようだぜこいつァ」

「…勝手に、て」

「それだけ主人に忠実ってこった。まあ従順な振りしてあっさり鞍替えするくらいには尻が軽いみてェだがな」

「なっ!」


ちなみに最後のはあたしの台詞である。
いくら気落ちしていようが気まずかろうが、否定しておかねば女の沽券に関わる問題というものがある。状況把握に勤しむ土方を見れば何やらこめかみを揉んでいるようで、一応誤解のないようにとあたしは必死で口を開いた。


「ちっ、違いますよ!尻軽だなんて滅相もないんですからね!」

「おい、いきなり耳元で喚くなうるせェ」

「侮辱されたとあっては喚きもしますよ!確かにっ、ひ――副長さんをだましてたみたいなところはあったので、そこは否定できませんけどっ」

「………」

「悪いことしてた自覚もありますけど、あたしはあたしで一生懸命だったんです!尻軽ではなくてですね、えー…そう、わ、悪い女なんです!」


悪い女なんです!…い女なんです!…なんです!…です!
微妙なエコーがかかって倉庫内に裏返った声が響いた。力いっぱい拳を握っていった割には情けないものである。
睨みつけるようにして目尻を挙げれば、しかし一方の土方はぽかんとした顔。まさに拍子抜けというか期待はずれみたいなそんな様子である。


「…悪い女、ねえ」

「そ、そうです!悪女なんです!なので申し訳ないですが謝ることはしませんっ!」

「…既に謝ってんじゃねーか」

「あっ!」


高杉の呟きに噛み付くようにして返せば、どうやら墓穴を掘ったらしい。先ほどまで緊張していた場の空気が一気にガス抜けしたようなものになる。
脱力したいのを必死で堪えているようないい年こいた大人二人は何やら微妙な面持ちである。いやいや、結構本気で言ってるのだけれども。


「…まあ、何だか知らねえが、そういうことなんで」


そのうち先に脱力状態から脱したのは高杉であったらしい。次の瞬間、その言葉を合図にするかのようにして突如響いたエンジン音。


「悪ィがこいつは返してもらうぜ。鬼の副長さんよ」

「はっ!? まっ、ちやがれ!」


土方が叫ぶと同時にドォン!と大きな音がして倉庫の一角が崩れ落ちた。何事かと振り向く間もなく救い上げられる体。ぐるりと回る世界に目を白黒させれば、何やら堅い装甲のようなものに手が触れた。


「二人ともしっかり捕まっているでござるよ!」

「ば、万斉さん!?」


前方から万斉さんの声がして、引っくり返ったままのあたしは素っ頓狂な声を上げる。どうやらやってきたのは大型のバイクに乗った万斉さんであったようで、そこに積み込まれるようにして高杉もろとも乗り込んだようだ。
一切の停止もないままに走り去るバイクは、体感したこともないほどの速度を出していた。下手をすれば大目立ちだろうに、何故だか裏露地を熟知している万斉さんにはその辺りは一切の問題もないらしく。


「――待て、高杉!」


背後から土方が叫んでいる。逆立ちのままに目を開けば、ほとんど着物を肌蹴させた状態のままで走っているようだった。破廉恥だなどと暢気なことを脳みその片隅で考えるが、あまりに遠くて何を言おうがもうこちらからは届かないような気もした。


「はっ、色男が台無しだな」

「いやしかし鬼のようなスピードでござるよ。いくら重量オーバーとはいえマックススピードの単車についてくるとは天晴れな根性」


何やら万斉さんがごちゃごちゃ言っているようだが、そのどれもがあたしにとっては右から左だった。
なりふり構わず走る土方さんがどんどん小さくなっていく。謝りはしないと言った手前、こんな罪悪感を感じることもいけないのかもしれない。だけど折角真選組を見直しかけたところだったのに。どうしてあたしはこんな遠くにいるのだろう。


「…何やら静かでござるな」

「………」


万斉さんの呟きに高杉は何も返さない。一切振り返ることをしないその横顔は、既に光を失った空の下とても綺麗なものに見えた。
何故助けに来てくれたのかなど見当もつかない。けれどあの時来てくれなければ確実にあたしは死んでいたのだ。お礼を言わねばならないのに、どうしてか酷く辛い気持ちになってしまう。


「――飛ばせ万斉。今夜はすぐに港を出るぞ」


静かな声に「御意」と一言。それ以降頭でっかちのバイクの上で声を発する者は一人としておらず、静かな夜があたしたちの頭上に訪れていた。



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