目が覚めたのはまだ日も昇らぬ時間帯だった。すっかり習性づいてしまった早起き生活を恨みつつも、そっと静かに身を起こす。
不自然なまでに障子際に寄り添わせた布団から抜け出ると、これまた不自然なまでに壁際に寄せられた布団が目に入った。掛け布団がまだ盛り上がっているところからしても未だ相手は夢の中であるらしい。
昨日の様子ではかなり酔っ払っていたみたいだけど、一応お侍さんなのだし、小さな物音でも起こしてしまうかもしれない。相手に対する気遣いというよりは自分の保身を最優先した上でそう考えたあたしは、衣擦れ一つにすらも用心するよう(恐らくここ数年で一番といっていいくらいに)心がけた。


「(よしよし、そのまま眠っててよ)」


まるで隠密か何かにでもなったようだ。相手から視線を外すことなく壁を伝って後ろ手に襖の取っ手を探す。
寝乱れた姿のままだが、こんな早くに見咎める者もいないだろう。あたしはできるだけ足音を立てぬよう退室すると、最低限の荷物だけ持って浴室へと足を向けた。

一階の割合に奥まった場所に湯殿はある。一応殿方用のものも設置されてはいるのだが、店の都合上こことは少し離れているらしい。花街に詰める遊女、並びに陰間がお風呂に入るのは早朝に客が帰ってからのことだ。
とはいえまだかなり早い時間帯なので浴室に人の気配はない。


「…失礼しまーす」


誰もいないのを知りながらも挨拶を一つ。既に湯の張られた浴室は立ち上る湯気で温められていて、僅かにかいた寝汗を流すにはうってつけに思える。


「とは言え一番風呂だよねこれ…」


あの土方とかいうお侍が怖くてつい逃げてきてしまったけど、あたしみたいな小物が綺麗な浴槽を汚していいものではない。特に何を言われているわけではないけれど、花街は厳密な縦社会なのだ。そもそもこの時間帯にあたしがここにいることすらおこがましい。
けれども今湯を借りねば恐らく今日一日お風呂に入ることはできないだろう。正直それは(一応)客を相手にしている身としては嫌悪感がある。


「…体洗って上がろう」


木目が目立つ床を滑らぬように歩き、浴槽から盥一杯分のお湯を拝借する。そこに持ってきた手拭いを浸して頭や体を洗うと、あたしはそそくさと浴室を後にした。
お風呂から上がると僅かではあるが日が昇り始めたのが見えた。いけない、そろそろ店の人たちが動き出す時間だ。
適当に浴衣を身につけ乱暴に髪を拭う。途中厨房に寄って熱さましの冷水を一杯だけ頂くと、そのまま足早に階段を駆け上った。

長湯をしたつもりもなかったのだけれど、既に階下からは帰り支度をする人の気配も感じられる。厳密な花街という括りの外にあるこの店には大門のような外界との隔たりはないものの、大の男が堂々と出入りするような場所でもない。この地域が陰間街なのは江戸でも有名な話であるし、早々に帰宅する客も多いのだろう。
ざりざりと遠ざかる草履の音を聞いているといつの間にやら部屋の前に辿り着いていた。いけないいけない、この中にいるのはそんじょそこらの浪士風情ではないのだから。昨日の様子ではあたしの正体(?)に気付いたような素振りはなかったけれど、相手はあの鬼と呼ばれるお人なのだ。警戒するに越したことはない。
息を呑んでそっと戸に手をかける。が、思いの他勢いよく開いてしまったそれに、既に起き出していたらしい室内の人物が驚いたように顔を上げた。

目が合う。


「…あれ、お目覚めですか」


何やら緊迫したような雰囲気だったが、こちらに他意はないので無難な声をかけることにした。敵意があると勘繰られて後ろからバッサリというのもありえなくはないので、なるべく当たり障りのないよう笑みを浮かべてみる。
が、一方の土方は何やらそれどころではないらしく。


「…お、っお」

「お?」

「お前…!」


敷布から抜け出さぬままの体勢で震える指がこちらを指し示す。顔面蒼白となった鬼の表情に首を傾げるが、はて何かあたしはこの人に恐れられるようなことをしただろうか。
疑問を抱きつつもいつまでも部屋の外に突っ立っているのも馬鹿馬鹿しくなり、敷居を踏まないようあたしは室内へと足を踏み入れる。それと同じくして土方が「ひィっ!」などと情けない声を上げた気がしたのだけれど。


「ご気分はいかがですか?あれだけ呑んでらしたし、もしかしたらまだお酒が残ってるんじゃないですか?」

「…お前に心配されるほどのこたァねえ。それよりも、か、刀ァどこやりやがった!」

「はあ?」


何やら怯えきっているようにすら見えるその人に、背を向けて片づけをしていたあたしは眉を寄せた。


「刀なら…こちらにありますけど」

「返せ!」


きちんと保管しておいたというのに思い切りふんだくられて何やら気分が悪い。確かに昨夜は楽しいお酒の席ではなかったにしても、この反応は何だというのか。


「…どうかなさったんですか?顔が真っ青ですけど」

「何でもねえっつってんだろ!つーかそれ以上寄ったら叩っ斬るからな!」

「………」


高杉並み…否、もしかしたらそれ以上と言える理不尽な発言に流石のあたしもこめかみが疼く。近藤さんや笹舟さんに言われたとは言え(その上多少の下心があるとは言え)、一晩面倒見てやった人間に対する態度なのか。昨夜の様子から礼儀を重んじる人だと思っていたのに、何やら裏切られた気分だ。


「斬れるものなら斬ったらいいです。その代わり無抵抗な市民を殺害したってことで、真選組の名は地に落ちますよ」


目を眇めて言えば、はっと気付いたような表情を浮べたあと悔しそうに目を吊り上げる。ふんだ。日頃どこぞの我が侭な総督様のお世話をしてるあたしをなめるなよ。
暫く無言の睨み合いが続いたが、先に折れたのは土方の方だった。観念したように重い溜息を吐き出している。何この人、失礼にも程があるんじゃないのか。


「…ゆ、昨夜、は」

「はい」

「何もなかった、んだろ」

「…は?」


ぼそぼそと不似合いな声量で呟く土方に眉を寄せる。怪訝な表情をしたあたしに気付いてか「だから!」と声を上げているが、はっきり言って何が言いたいのかさっぱり分からないのだが。


「だから、その…あ、アレだよ」

「いやどれですか」

「アレっつったらオメーアレしかねーだろうが!こ、こんな店なんだからその…っ」


怒鳴るだけ怒鳴った後の土方の声は小さく消えてしまう。こんな店なんだから何だと言うのだ。鬼だというからビクビクしていたが、何だこの人ただのヘタレじゃんか。


「あーもうはっきりしない人ですねえ!侍ならビシッと言ったらどうですか!」

「〜〜〜…っだから!俺のケツは無事なのかって聞いてんだよ!」


聞いてんだよ!…いてんだよ!…てんだよ!…んだよ!
綺麗なエコーが尾を引いて室内にこだまが発生した。肩で息をする土方を見上げるあたしは、まさにぽかんという感じだ。


「け…ケツって」

「…ここはその、男色を売る店、だろうが。だとしたら何かしたかされたかと考えたっておかしくは」


顔を赤らめて乱れた前髪をがしがしと掻き回しながら言う土方。その真意を段々に理解したあたしの頬にもぼっと火が灯ったような気がした。


「な…っ!ばっ、馬鹿なこと言わないで下さい!何が楽しくてあた…僕が貴方とそういう関係にならなきゃいけないんですか!」

「いっ、一応確認だ確認!侍たる者万事に備えねえと色々アレになんだよ!」

「さっきからアレアレアレアレうるっさいですよ!言っときますが僕は酔い潰れた貴方を介抱しただけで!それも近藤さんが態々頼むっていうから!」


けたたましい叫び声を上げつつ口論を交わしていると、どこからか「うるせえぞ!」という怒鳴り声すら聞こえてきた。流石に恥ずかしくなって声を落とすが、顔に昇った熱は中々冷めそうにない。


「…兎に角、お、お尻の心配をされることは一切ありません。どっちかと言えば肝臓を心配して下さい」

「…そ、そうか」


何とも気まずい空気が流れる六畳間になってしまった。互いにそっぽを向きつつ溜息を吐くと、同時にお腹が小さく鳴き声を上げる。


「…大声で叫んだらお腹が空きました。朝餉のご用意もありますけど」

「…ああ、じゃあ頼むわ」


赤面した顔を隠しつつ言えば、気まずそうな声で了と返ってきた。給仕をさせる程偉い身分ではないのだしと自ら膳を取りに部屋を出れば、土方が布団を上げておくと申し出てくれた。


「…調子狂うなあ」


再び部屋を後にしつつ一人呟いてみる。どうにも夜と朝とで印象の変わる御仁である。用心するに越したことはないのだろうけど、こんな小娘(まああっちは男だと思ってるだろうけど)相手にあたふたしてみせたり、つくづく掴めない人だ。

厨房へ向かうと既に朝餉の支度は整っており、下働きと思しき男性に声をかけると景気よく椀に料理をよそってくれた。ふむ、ご飯にお吸い物に甘露煮の魚。色街で見るには中々家庭的な朝食である。
膳を二段に重ねて抱え、えっちらおっちらと階段を登る。さほど幅があるわけではないが、すれ違うに問題はなさそうだ。幸い誰と会うこともなかったが、部屋まで辿り着いた時には思わずほっと息を吐いてしまった。


「失礼致します」


先ほどはしそこねた挨拶と共に襖が開く。丁寧な仕草で入室すると、既にそこに先ほどの名残りはなくなっていた。どうやら布団はきちんと下げられたらしい。


「土方様はお嫌いなものがありますか?」

「あ?いや、特にはねえな…というかその土方様ってのやめねーか」

「…はあ」


首筋がむず痒くならァ、と荒っぽく言い放つその姿はもう平時のそれと変わりないように見える。さっきはあんなに取り乱していたというのに意外と感情表現が豊かなのかもしれない。
ほとんど会話のない空間に膳を用意する音だけが響く。考えたら昨夜はどことなくぎくしゃくしてしまったのだった。疑いを持たれたまま雪崩れ込むように酒乱の席になってしまったのだし、まだまだあたしに対する警戒心は解けていないんだろうなあ。
…などと考えつつちらりと視線を走らせる。するとその先の土方はじっと自分の膳を見つめているようで。


「? どうされました?やっぱり何かお嫌いなものが」

「いや…そうじゃねェんだが」

「?」


疑問符を浮べるあたしに、土方は口元に手をやり数瞬考えるような仕草を見せる。何だろうとそのまま見守っているが、ついに観念したのかそっと口を開いてこうのたまった。


「…マヨネーズ」

「え?」

「マヨネーズ、もらえるか」



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