耳元に心臓ができたかのようにドクドクとうるさい鼓動が聞こえる。目の前の人物がぐにゃりと歪んだような気がした。
あの日のことはめちゃくちゃトラウマになったとは言え、あちらも仕事をしていたのだから恨み辛みを吐くつもりはない。が、あちらにとっては違うのだろう。子供とは言えあたしは高杉の近くに控える者。実際のところはただの小間使いであったとしても、真選組にしてみれば有力な情報源となるはずだ。

どうしよう。こんなところで素性をバラすわけにはいかない。兎に角実際彼らと面識はないのだし、衣装や服装で多少は誤魔化しがきくはずだ。
動かないあたしに笹舟さんがチラチラと視線を送っている。それが叱咤のものか心配なのかは分からないが、何であれここでヘマをするわけにはいかないのだ!


「…オイ、いきなりどうした」


胡乱気な視線を投げかけていた土方が気遣うように…というよりは、何か疑いをかけるようにそっと問うてくる。そりゃあ自分の名を聞いて固まる人間がいたら怪しいと思うのは当然だろう。ただでさえ彼は泣く子も黙る真選組という集団に所属しているのだから。
あたしは固まった体を必死で稼動させ、持ちうる限りの力を振り絞って笑顔を形作って見せた。それまで目を見開いていた人間がいきなり笑みを浮かべたから驚いたのだろう、土方も一瞬目を大きく見開くが、張り詰めたような警戒はまだ解く気はないようで。


「…あ、失礼致しました。皆からお話は伺っていたのですが、あの有名な副長さんとお会いできるとは思わなくて」


ちょっと空々しい言い訳だけれども、咄嗟にはこんなものしか思い浮かばなかった。あたしは震える手を叱咤して銚子を握り直す。


「…へえ?」


どうやら相手も疑り深い性質のようだ。切れ長の目をすっと眇めて見つめてくる様子からはどう見ても友好的な雰囲気は感じ取れない。けれどあたしはひたすらに笑うことしかできないので、空いていた杯に酒を注ぐ振りをして誤魔化そうと必死になっていた。


「土方様、どうぞ」

「…ああ」


朱塗りの銚子から透明の液体が流れ出る。土方はその様子をじっと静かに伺っていたが、一定の量を注ぎ終えると何故かそれをこちらに差し出してくるではないか。


「…あの?」

「お前も呑め」


銚子と揃いの鮮やかな杯の中には縁起のいい日輪を表す金の丸が描かれている。これはとある古典だか故事だかに由来したものらしいのだけれど、兎も角そのお天道様入りのお酒がたった今あたしに向かって差し出されているわけであって。


「(これは…毒でも盛られたと思ってるんだろうか)」


当然といえば当然の疑念だが、あたしがそんなことをする余裕を見せただろうか。第一こちとら未成年だってのに、警察が酒なんか進めるんじゃないっての!
――などと心中で散々吐き捨てても相手に聞こえるわけがない。腹を括ると決めた以上、酒だろうが何だろうが飲み干してみせるのが女の意地ってものだろう。

あたしは笑顔で土方から杯を受け取ると、自分で注いだばかりの酒が入ったそれを口元に捧げにこりと微笑んで見せた。


「頂戴します」


両手で支えるようにして杯を傾ければ独特の苦味を持つ液体が一気に喉に流れ込んでくる。正直言ってちっとも美味しいと思えないのだが、何のこれしきとばかりに一息にそれを煽ってやった。


「美味しゅうございました」

「…ほお」


慇懃な笑みを湛えて酒を一気に乾すというのもどうなんだろう。思ったが存外面白く感じてもらえたらしく、お世辞にも優しげとは言えない笑みを土方は浮べていた。そのまま杯を返して、今度は彼が一杯煽る。


「結構なお手前で」

「てめェもな」


何やら腹の探りあいのようにして始まった宴会は、けれどもおおよそ和やかに過ぎていくものだった。
進められるままに何杯かお酒を呑んだのだが、考えてもみれば胡蝶姐様の趣味とも言えるカクテル作りの実験台になったりもしたのだから、然程弱くもなかったようだ(決して強いとも言えないが)。アハハウフフと表面上だけは笑いあって杯を交わすあたしたちを近藤は微笑ましげに、錫高は物珍しげに見つめていた。

そうして宴もたけなわとなった頃、程よくほろ酔い気分の錫高が脇息に凭れつつ口を開いた。


「今日は美しい花を傍らに随分旨い酒が飲めたなあ」


と、すぐ横に控える笹舟さんを褒めそやすようにして言う。酔いに任せて杯を持たない方の手は相方の腰に回っているのだが、笹舟さんも慣れたもので変わらずに笑みを湛えていた。


「どれ、ここらで今宵のメインディッシュといこうではないか。私は真選組の活躍ぶりを聞きたくて来たのだから」


察するにその“真選組の活躍”とやらを酒の肴にしようということなのだろう。普段真選組がどのような仕事をしているのかなんて大まかにしか知らないが、こうして言われれば接待までこなさなくちゃならないなんて中々大変な職業なんだなあと、どこか他人事にぼんやりと思う。


「どうだ近藤、最近何ぞ面白いことはなかったか?」

「そうですなあ…」


赤ら顔で問いかける錫高に応えたのは局長の近藤さんである。陰間とは言え綺麗な見目の花に寄り添われてデレデレしているところなんかを見ると、正直本当に偉い人なのか疑わしくなってしまう。直接言葉を交わしたわけではないけれど、この土方をはじめとする猛者を率いるには人がよすぎるような気もするのだが。
顎に手を当て考え込むような仕草を見せる近藤さん。警察相手に「面白いこと」も何もないような気もするのだが、まあ酒宴の席での小噺だ。敢えて混ぜっ返すよりも大人しく聞いていた方がいいだろう。
と、そんなことを考えつつまた一つ土方の杯に酒を注ぐ。お互いに呑み合っているから既に二つほどお銚子は空いてしまっているが、あたし個人としてはまだまだ余裕なものだ。


「何ぞ捕り物などなかったのか?できれば絵巻のような大仰なものがいい」


錫高が身を乗り出すに合わせてつまみが置かれた膳がガチャンと音を立てる。無粋な聞き方に近藤さんは苦笑を返しているが、どうやら土方はお気に召さなかったようだ。ほんのりとではあるがその伏せた視線が鋭くなっているような気がしてならない。
――などと他人事のようにその光景を眺めていたあたしを、思わぬところから伏兵が襲うこととなる。


「そうだ、彼奴はどうした。あの過激派テロリストの」

「過激派――…ああ、もしや攘夷志士の高杉晋助のことでございますか」

「!!!」


…思わずお酒を噴出すところだった。何とか思い留まるもむせかけた喉がアルコールに焼かれてヒリヒリする。生温くなった液体を無理矢理嚥下してちらりと視線をやれば、上げられた名前にさも嬉しそうな顔をする錫高の姿が見えた。


「おお、そうそうそやつだ!敵ながらいかにも悪役らしい天晴れな奴と思っておったのよ」

「…錫高様、言葉が過ぎませぬか」


しかしはしゃぐ錫高を嗜めるように土方が鋭く言い放つ。身分の上では天と地ほどの差があるものだから強くは出れないが、仮にも幕吏が指名手配班を湛えるなど言語道断なのだろう。
ぴしゃりと放たれた言葉に錫高はやや気分を害したようで、一緒に盛り上がっていた側近の二人と共に少しだけ眉間に皺を刻んだように見える。剣呑な雰囲気に近藤さんはおろおろとするばかりだが、横に座る土方は泰然と杯に口をつけるばかりだった。ううん、さすがは鬼の副長と言うべきか。



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