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「うわ…」
既に路地に雑多な人が溢れ出す時間帯を過ぎ、ひやかしの者意外はそれぞれが店で宴を始める頃。わざととしか思えぬ時間のずらし方をした奇妙な客が店先に現れた。
二階の窓からそれを眺めていたあたしは、おいでなさったとばかりに背筋を強張らせる。階下は提灯や行灯が灯されているとはいえ室内と対比すればとても薄暗いため、どのような人物が来たのか確認まではできなかったが。
「いらしたようだね」
傍で控えて化粧を直していた笹舟さんが小さく呟く。どうやら幕臣のお出ましともあって今日の座敷にはメインで上がることになっていたらしい。
そっと様子を伺えば丸い鏡越しにばちりと目があって、ぎくっと大きく肩を揺らしたあたしを見て笹舟さんはぷっと吹き出した。
「そう堅くなりなさんな。アンタも経験のあることだろう?」
振り返り様にあっけらかんとのたまうが、あたしはあくまで禿役であったのであって決して客を取ったことはない。姐様たちのご到着までとお茶の相手をしたことはあるが、宴の席に上がるのは初めてだし、何より相手はあの真選組なのだ。不本意とは言え攘夷志士の下に身を置くあたしの存在を、いつ怪しまれるとも限らないではないか。
「今更何言ってんだィ。それも覚悟の上なんだろ」
小指で紅を掬い取って、笹舟さんが窘めるように言う。
「そ、うです。腹はもう決めたんです」
「そうそう。その意気でいてくんなきゃこっちの立場がないからね。遊び場と思ってンなら早々に帰ってもらうところさ」
指導の合間にも投げかけられたやや言葉尻のきつい言葉にぎゅっと拳を握る。
この役目を侮っているわけではないけれど、汀屋の人たちからみたらあたしはあくまでも異分子でしかないのだ。それを承知で受け入れてもらっている以上、迷惑などかけられるはずもない。
「…面倒に考えるのはアンタの癖かィ?」
「え、」
と、下りかかった頭を顎から掬い上げられた。ぐんと引き上げられる視界に驚いて目を瞬かせれば、既に準備を済ませた笹舟さんが物凄い至近距離であたしを睨みつけていた。
「あ、あの」
「そんな辛気臭い顔で出られちゃこっちも迷惑だよ。どうすんだィ?帰りたいならこれが最後だ」
白魚のような指先には濃い色の染め粉が塗られた爪が輝いている。厳しい顔つきをする笹舟さんがこの仕事に誇りを持っていることは痛いくらいに伝わってくる。口先だけのあたしの内心を、分かった上でそう聞いている――否、聞いてくれているのだ。
「…帰りません。今日一日の恩義を返さずにいることなど、僕にはできません」
その気持ちに応えたい一心でしっかりと目を見てそう言った。
すると笹舟さんはつり目がちな双眸を軽く見開き、数回ぱちぱちと目蓋を開閉させた。同時に豪快に伸ばされた睫がバサバサと眼前で揺れる。
「…微妙にズレてんのは本性のようだねえ」
そうして溜息混じりに呆れた様子で言葉を吐いて、少しだけ上半身を後ろに逸らす。何か言われるのかと構えたままのあたしを他所に、笹舟さんは何事か手元でいじっているようだ。
「まあその目つきは合格点だけどね」
「…え?」
「ほら、アンタもう紅が取れかかってるよ。さては無意識に食ったね、この食いしん坊が」
言いつつちょいちょいと綺麗な小指が唇の上を這う。どうやら薄くなった紅を付け直してくれたらしい。んまんまと上下の唇を合わせるよう指示され、不思議な気持ちでそれに従う。
「アタシらの仕事は相手を愉しませてナンボなんだよ。だってェのにとうのアンタがその調子じゃァ宴もお通夜になっちまうだろ?」
「す、すいません…」
「ほらそこも。謝るんでなしに、だったらどうだってのくらい言ってみたらいいのに」
びしりと指を差されながらの言葉にあたしは慌てて首を振った。まさかそんなことを言えるわけがないではないか!首がもげんばかりに否定するあたしに笹舟さんは悪戯っぽい笑みを向けてくる辺り、どうやら確信犯であったようなのだが。
「ここは芸場だ。付け焼刃の陰間もどきだって、にこにこ笑ってりゃァそれだけで花代がもらえんだからいい儲け話じゃないか」
「…は、はあ」
けらけらと笑い続ける笹舟さんは、花柳界の闇や影というものを一切感じさせない明るさがある。あの胡蝶姐様と懇意というのも頷けるなあと感心していれば、いつの間にやら階下では宴会が始まっていたらしい。
「おや、どうやらちと話し込み過ぎたみたいだね?」
「錫高様もご到着の由、笹舟さんを呼んでらっしゃるよ」
手隙の陰間かそれとも稚児役の者か。化粧と豪奢な着物で年齢のよく分からない人物に呼び出され、笹舟さんは最後の仕上げにと重たい簪を一つ差し上げた。
じゃらじゃらと派手な音を鳴らすそれに見とれるように視線をやっていたら、また苦笑交じりの声が落とされる。
「ほら、アンタも行くんだろ」
「はっ!」
「ボヤボヤしてると客なんざすぐ獲られちまうからね」
笑いながら身を翻すと、笹舟さんの背後で金糸の残滓がきらきらと輝いた。太夫というには些か地味のようにも感じる濃紺の内掛けは、けれどその渋さが相俟って色白の顔を満月と湛えた夜闇のようにも思えるから不思議である。
「そうそう、今からアンタは花(源氏名)だからね」
「花(源氏名)?」
「ああ、即席とは言えいい名だろう?今宵限りのもんだが、大事にしてやんな」
そう言って笹舟さんは颯爽と部屋を出て行った。慌ててあたしもその後を追うが、前を行く人の足取りは全く着物の重みを感じさせない。
「さてさて、初陣じゃ初陣じゃ」
どころか鼻歌さえ歌いだしそうなその横顔に、“面白がられている”あたしは小さく小さく溜息を吐いた。
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