――ドドン!暮六つを知らせる太鼓が響き渡り、夜はその帳を下ろし始める。初夏ともあり日入りの時間が延びた最近でも、もうこの時間になると薄っすらと空が藍色を帯び始めるのだ。
窓から入る風に髪が遊ぶ。ぼんやりと外の景色を眺めていたら、着付け役のオネエさんに物凄く怒られた。


「昼間あんだけ騒がせてもらったからね。うんと綺麗にしてやるから、アンタも気合い入れてなりきりなよ」


やけに気合いの入ったその人は、まだ店に上がったばかりの若い陰間だ。昼見世を終え少し乱れた化粧や髪をそのままにしているのは、男性と知っていながらもどこか色めいたものを感じてしまう。
「はあい」苦笑交じりに返事をすると綺麗なウインクが返された。

昼見世の後、手が空いているからとあたしの世話を買って出てくれた笹舟さんはこの場にはいない。ああ見えてあの人はとんでもない売れっ子なので、夜見世が始まる時間帯は大わらわなのだそうだ。


「へえ…それほどの方なら表立つことは止められそうですけどね」


驚いた表情であたしが言うと、化粧を施してくれていた人の手が止まる。紅入れの綺麗な貝殻を手繰り寄せて中身を刷毛で均すと、視線が落ちたところに先の揃った睫が綺麗に並んでいるのが見えた。


「ふふ、普通はね」

「? 普通はって…それはどういう?」


傾げた首はがしりと存外逞しい両腕に挟みこまれる。びっくりして目を瞬かせた先でその人は綺麗に笑っていた。やや骨ばった手が右頬に当たり、逆側の手では器用に刷毛が動かされている。


「花街の仕来りは不可侵だけれどもね、元々ここいらは芝居小屋が多かっただろう?だもんで、こっちも無駄に見せることに執念燃やすようになっちまってさ」

「見せる?」


刷毛が唇の上を動く感触に耐えながら問えば、目の前の人は少しだけ視線を窓の外へと流した。何だと思いつつあたしもそちらへ目を向ければ、既に少しずつ行灯に明かりが灯されていくのが見える。


「明かりが灯れば夜見世の始まりだよ。ほら、開店を知らせる見世清掻き(みせすがき)が聞こえるだろう?」


言われて耳を澄ませば確かに階下から聞こえてくるお囃子の声。まるで祭りのはじまりのようなざわめきに、あたしはどこか懐かしさを覚えた。


「本来ならこれでアタシらが張り見世に出るんだけどね。ここじゃァちょっとした見世物をすることになってるんだ」

「見世物…?」


ご覧、白い指先に促された先には一際明るい提灯が灯る軒先がある。往来の耐えない大通りからほど近いこの場所には沢山人が集まっており、黒山の群集となって一つの独特な空気を作り出している。
いつだか玉響屋の女将さんが花街に入っては身分の違いも何も捨ててもらいたいと言っていた。とは言え実際ここは高給取りしか遊べない格式高い場所だし、元より女性が男性を持て成すという意味では身分や生まれをなくすことは不可能であった。
しかしここではどうだろう。店先に設けられた囲いには人々がすずなりで、恐らくそこには様々な背景を持つ人たちがいるのだろうが、彼らは一様に同じものに目を奪われていた。生まれや身分を一瞬でも完全に忘れて思わず虜になってしまう。そんな輝きがその先にはあったのだ。


「あれは…笹舟さん…?」


そうして人々が寄り集まる中心にその人はいた。角度的によくは見えないが、昼間の簡素な浴衣ではなく豪奢な着物を纏っている。友禅を思わせる繊細で華やかな内掛けに金糸の刺繍が眩い帯。朱色の覗く半襟から伸びる首筋は白く、女神と見紛うような表情で微笑を湛えていた。目尻と口元には赤い紅が置かれ、先程まであたしを叱咤しまくっていた口元は今や神のお告げが零れるのではというほどの柔らかさで結ばれている。
とりあえず素の笹舟さんを知っている人間からすればギャップを感じざるを得ないその変身ぶりに、あたしはあんぐりと口を開けて固まった。


「どう?驚いただろう?あれがここらの夜見世の合図、“宵咲き太夫”の咲き初めさ」


窓の格子にへばりつくあたしに背後から教えてくれる着付け役さん。何やらちょっと笑える単語が聞こえないこともなかったが、とりあえずとんでもなく奇怪な風習があるものだと頻りに感心してしまった。


「あの、さっきも笹舟さんが言ってたんですけど、その宵咲きって何なんですか?」

「ああ、知っての通り笹舟さんはそんじょそこらの遊女にも負けないくらいの人気者だろう?元々人数の少ないアタシらは昼も夜も出張るのが基本なんだけどね、あの人だけは勿体ぶって夜見世にしか姿を表さないのさ」


だから、誰が呼んだかいつの間にやら宵咲きの名を欲しいがままにしていたのだとか。笹舟さん本人が名乗りだしたことでもないので本人も始めは面食らっていたのだそうだが、面白いことが大好きなあの人のこと、きっと嬉々としてその二つ名を受け入れたのだろう。


「笹舟さんのことは胡蝶姐様たちから聞いてましたけど、本当に凄い方なんですね…」

「そりゃそうさ。あんだけ綺麗で芸も床も達者だってのに、気取らず誰にでも気軽に接する気風のよさだからね。慕って集まるもんは多いってこと」


しみじみと呟けば誇らしげな返事が返ってきた。愛されてるんだなあと感じると同時に、そんな人に一日ご教授願った身分としてはヘマが出来ないプレッシャーに襲われる。


「さァて、眼福に預かったところでこっちも仕上げに取り掛かるよ!」


緊張に強張ったあたしを見抜いてか着付け役のその人は明るく声を上げた。慌てて振り返り是と頷くと、その人も綺麗に笑い返してくれた。
室内は甘い香炉の匂いに包まれ、こうして夜が始まっていく。



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -