わたしがそれを飲み込んだのは結局いつのことだったのか。医学的には十月十日というらしいが、実際はっきりとした記憶などないのだから自覚症状などあるはずもない。「サンカゲツデス」白衣を着たオペラ歌手みたいなおばさんが笑って言った。それは日本語であるらしいのだけど、私にはどうしてか不思議な呪文にしか聞こえなかった。

ぺたんこのお腹に異変が起きたのはそれから暫くしてからのことであった。その日わたしは雑誌で紹介されていたおしゃれなお店にランチに来ていたのだが、店内に入った途端とんでもない眩暈に襲われたのである。同席した友人がどうしたのと心配げに目配せしてくるのに、大丈夫だと笑って返す。だってずっと楽しみにしてきたのだ、きっと寝不足で足元がふらついたのだろう。そう考えることにした。けれどもいざ料理が運ばれてくるともう酷かった。こみあげる吐き気と脂汗にわたしはすぐさま席を立ち上がり、驚く店員の声を背中にしながら逃げるように店を後にした。辿り着いた公園は見覚えのない場所だったが、薄暗い共同トイレに駆け込むや否や胃の中のものを全部吐き出してしまった。苦しくて辛くて涙が出た。収まらない胸のむかつきと割れるような頭痛で死んでしまうのかとさえ感じた。

ああ、わたしはきっと何か悪いものにとりつかれてしまったのだ。

その後も定期的に吐き気がわたしを遅い、体がだるく重たいのは日常となっていった。あんまり動く気もしなくて一日中家に閉じこもってばかりいる私を、それはだめだと友人の一人は諌めたが、どうしてだめなのか見当もつかなかった。そうしてそんなわたしの体調を気遣うこともなく、突然やってきた両親には開口一番怒鳴り声を投げつけられた。唖然とする私には父が何を言っているのか分からない。母がどうして泣き崩れているのかわからない。嵐のように頭上で巻き起こる出来事に私だけが対応できていないらしい。やがて一頻り言いたいことを言い切ったらしい父親は肩で息をするようになり、最後に「ドウシテ」と呟くとその場にくずおれてしまった。

肩を抱き合うようにして帰る両親をまともに見送ることもできず、わたしはただベッドに横たわっていた。海が満ちるように穏やかに訪れる眠りは、あたたかいものであることもあればわたしを苦しめるものであることもあった。苦しんでいる時は必ず脳内に誰かの声が響いていた気がする。男とも女ともつかない、強いていうなら幼いこどものようなそれは私をただただ不安定にさせた。初めてナウシカを見た際、あの小さい子がうたう「ラン、ランララ」ってやつがずっと頭から離れなかったのによく似ている。恐怖というには気恥ずかしいが、まるでこちらをノイローゼに叩き込みたいのかと思わせるような効果はあったはずだ。気付くとわたしのお腹はびっくりするくらいに大きく膨らんでいた。

激しい痛みの中目覚めると、頭上には眩しいライトが輝いていた。何事だと思い目を開ければそこには汗まみれのお医者さまたち。事態が飲み込めずに目を白黒させるわたしに気付くや、血まみれのエプロンをかけた一人がにこにこと笑ってこう告げた。「オトコノコデス」と。何のことか分からず首を上げればその人の腕には何やら赤黒いかたまりが治まっていて。それが何なのかすぐには理解できなかったが、特にどうとも思いはしなかった。どうして周りがこんなにも喜んでいるのか、そちらの方が不思議だった。

すやすやと小さな寝息を立てるそれは、どうやら生きているらしかった。震える手を伸ばすとやわい感触が伝わってくる。小さくて温かくて、まるで湯たんぽのようだと思う。時々何かよく分からない鳴き声を上げては両手足を突っ張るように伸ばした。これは一体何を食べるのだろう。わたしの元にあるということは、わたしが育てていかねばならないのだろうか。純粋な疑問を口にすると、偶然遊びに来ていた友人は表情を固まらせた。そうして一頻り私に「ダイジョウブカ」というようなことを問うてから、その物体の育て方を教えてくれた。

それはどうやらわたしの乳を飲んで育つらしかった。請うように手を伸ばしてはわたしの愛撫を強請るそれが可愛くないわけではない。けれどもどうしてここにあるのか、それがよく分からないのだ。生きているならもっとちゃんと喋ればいいものを。身振り手振りだけで伝えようとするなんて、何て億劫で低能な生き物なのだろう。友人に教えられた通り乳をやり背を叩いてげっぷをさせるとそれは満足そうに眠りに就いた。

暫くするとそれは随分と大きく成長した。はじめは四つん這いに這い回っていたのが二つの足で立つようになり、今では私の助けなど借りずとも元気にそこらを走り回っている。時折こちらを振り向いては何やらくしゃりと表情を歪め、弾んだ声でわたしのことをよぶような仕草をした。「○○○」それはわたしのことを差して何かの名称をつけたようだが、毎回よく聞き取れないため自分がどう呼ばれているのかが分からない。生活に支障はないからいいのだけれど、もし変なあだ名をつけられていたら厄介だな。ちゃんと言葉は喋れるようになったみたいだけど、それならわたしの名前くらい覚えてくれたってよさそうなものを。

もう少し時間が過ぎると、それは偉大なる自己を持ち意思によって主張をするようになった。初めは可愛らしいものであったはずの要求は、次第に傲慢かつ勝手になり、時と場合を考えなくなっていった。何かにつけては「○○○」とわたしを呼んで駄々を捏ねてみせる。可愛くもあるが次第に憎たらしくなるその行動は、わたしの中に黒いかたまりを作り上げていった。もやもやするようなそれは胸を侵し、次第に腹や喉、頭に至るようになった。汚い手足が我が家の壁や床を汚し、甲高い声が天井を揺らすのが許せなくなった。それでも始めは頑張っていたと思うのだけれど、元々堪え性のないわたしはすぐに音を上げることになった。「○○○!」呼ばれる度にこの身に呪いが焼き付けられるようで。苦しくて、辛くて、折角軽くなったはずの体がまた数ヶ月前の状態に後戻りしてしまいそうで。

ぶつりとなにかがきれるおとがして、
わたしはにげるようにいえをとびだした。

靴を履くのを忘れたので足の裏がとても痛かった。頬を伝う熱い雫が止まらず、まるで獣のような声を上げて暗い道を走り続けた。どこでもいいから、もっと明るく温かい、しあわせな場所にいきたかった。

がむしゃらに走っていくと、目の前には大きな川が横たわっていた。コンクリートの橋がかかっているものの、数日間続いた豪雨で水面は狂ったように荒れかえっている。わたしは端の上からその様を覗き込み、そしてほっと息を吐き出した。茶色く濁った激流がまるで私の心のようだったからだ。この中に飛び込んでしまえば、わたしもその大いなる流れに飲まれることができると思った。しあわせに なれると おもえた。

身を乗り出したわたしを止めるものはない。どころか吹き付ける湿った風に背を押されているとすら感じられた。両手を広げればどこまでも飛んでいけそうだし、どこまでも落ちていけそうだ。ごうごうと渦巻く濁流に遠い宇宙のことを思った。星が流れて燃えるように、この身も朽ちてしまえばいいのに。


「――おかあさん!」


ふと、甲高い声が鼓膜を震わした。半身を乗り出すわたしはのろのろとした動作で振り向く。腹筋が震えてどこかをいためてしまいそうだ。肩越しに振り返るとそこにはあの生き物がいた。小さな肩を上下させてこちらを睨みつけている。ああ、どうしてそんな目でわたしを見るのか。睨みたいのは、怒鳴りたいのは、わたしの方であるというのに。


「おかあさん、おかあさん、おかあさん!」


耳障りな声でそれは何度も鳴き、わたしはその度に胸のむかつきが大きくなるのを感じていた。うるさいと遮るのは簡単だけれども、もう声を上げることすら億劫だ。どうしてわたしを呼び止めるの。どうしていかせてくれないの。どうしてわたしはしあわせになれないの。奥歯を噛み締めるのとそのいきものがわたしの足に縋りつくのは同時だった。どしんという衝撃に一瞬手を滑らせそうになるが、慌てて手すりにしがみつく。それがどうにも生への執着のように思えて、わたしはかっと眦を吊り上げた。


「おかあさん、しなないで!」

「うるさい!はなせ!」

「はなさない!おねがい、いっちゃやだ!」

「はなせったら!わたしはおまえなんかきらいなんだよ!」

「それでもやだもん!ぜったいはなさないもん!」

「この…っ」


激昂したわたしは大きく腕を振り上げた。殴ってでもそれを引き剥がそうと思ったのだ。けれどそれが叶うことはなかった。なぜならそれが肩を震わせて泣いていたからで、その流れる雫が、この世の何よりも美しいと思ってしまったからで。


「………っ」


動きを止めたわたしなど見向きもせず、ただ片足に縋りつくそれは懇願するようにすすり泣いた。決して大声は上げぬ、それらしくない泣き方だった。そうして小さく消えてしまいそうな声で、「ひとりにしないで、つれていって」と言った。


「おかあさんがぼくをきらいでも、ぼくはおかあさんがすきだもん…っ!」

「っ、」


温かいと思った。初めてそれに触れた時のように、やわい肌から伝わるのは愛しいとさえ思えるぬくもりだった。気付くとわたしは手すりから手を離し、掻き抱くようにそれを抱きしめていた。そうして外聞も気にせず大声で泣いた。泣いて泣いて、干からびるかと思うくらい泣き喚いた。するとそれもつられるようにして泣き始めた。やはり先ほどまでのは我慢をしていたらしい。伸ばされた短い腕がわたしの首に巻きついて、発火しそうなほどの熱を抱いたままぎゅうぎゅうと抱きついてきた。

ああそうか、これはいのちだ。
わたしがうんだ、いのちなのだ。

唐突な理解はわたしに歓びと恐怖を齎した。我が子を抱くという嬉しさと、手を上げようとしたことへの後悔と。二つの感情がない交ぜになった不安定な状態のままのわたしを、けれど子どもは二本の足でしっかりと支え続けた。身長など倍ほどの違いがあるというのに、どうしてかとても大きな存在に思えてしまって、そうすると益々涙が止まらなくなった。

一頻り泣いたあと、わたしはそれに恐る恐る手を伸ばした。するとそれは嬉しそうにして手を握り返してくれたのだ。わたしたちは二人手を繋ぎ、元来た道を帰っていく。否、元来た道ではない。今度こそ正しい道を歩むため、たった今立ち上がったのだ。左手に伝わるぬくもりが酷くいとおしくて、涸れたはずの涙が再び頬を濡らしていた。

あの日、わたしが飲み込んだのは悪いものなどではなかったのだ。
きっとそれは宇宙。幾千の星たちをその身に抱く、小さな小さないのちだったのだ!


「…あのね」

「なーに?」

「きらいだなんて、うそだからね」

「…ふふっ」

「…なに?」

「そんなことくらい、とっくのとうにしってるよ」

「え?」


だってあなたは、ぼくのたった一人の○○○ではないですか。

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -