美しいぬばたまの黒髪を揺らして儚げな呟きが聞こえた。それだけなら諸手を挙げて駆け寄りたくもなりそうだが、どうしてか彼女の後ろには人ならざるものが見えるのだ。影のように姿を変えるそれを人は悪霊だの何だのというけれど、兎に角私にとっていいものであるとは到底思えない。ていうか何これ、普通の女子高生がそんな少年マンガのキャラみたいな技使えちゃっていいんですか!
――浅井長政くんの彼女ことお市ちゃんは全校の女子生徒の憧れであり、また同じくらいに畏怖の対象とされている人物でもあった。(そりゃあもう、何故かさま付けで呼ばれてしまうくらいには)


「すみません前言撤回ですわたしを連れて逃げてくださいここではないどこかへ!」

「分かったならいい」


急に饒舌になった私にツッコミを入れることもなく長曽我部くんはニヤリと厭らしい笑みを浮かべる。悩殺的とも悪辣ともいえるその笑みに覚えるのは一抹の戦慄ばかりだ。
取り合えずここで手を離されたら必死ということだけは分かったので、不本意ながら私は長曽我部くんの逞しい腕に自ら縋りついた。のだが。


「え、ちょ、長曽我部くん?」

「何だ」


縋りついた途端その腕が腰にまで回ってきて驚きの声があがる。しかし赤らんだ顔で見上げた彼からはエロスなものは一切感じられず、というか腰に手を回すというよりは担ぎ上げる準備をしていたらしいのだが、え、ていうかちょっと待って。あれ、私はどうしてこんなところに。


「3階まで上がると野次馬が面倒だからな」

「じじじゃあ素直に捕まるってんですかああ!?」

「馬鹿野郎、男に二言はねえって知らねえのか」


米俵のように肩に担がれかけた不安定な体勢で叫ぶ私に、長曽我部くんはやはり余裕の笑みを返してくる。因みに「知らねえのか」と言った際ちらりと覗いた八重歯に心臓が高鳴ったのは、全力で気のせいだと思いたい。
3階には行かないと宣言しておきながらも長曽我部くんのスピードは緩まらない。私は浅井くんたちを振り返る形でお腹に腕を回されるという、いくら何でもそりゃあねえぜな体勢のまま混乱する頭を抱えていた。どうするのだと聞いても長曽我部くんは答えてくれない。そして背後に迫る浅井くん(とお市さま)。
このままでは壁に激突かという未来を考えて真っ青になる私であったが、一瞬浅井くんが目を見開いたことに視線を奪われてしまった。そうして次の瞬間、襲いかかったのはいわゆる不快な浮遊感というやつで。


「え、あ」


そんな、まさか。
嘘だろと思いつつも背後を振り返れないので今私がどうなっているのかは分からない。ただ私の目に映るのは薄汚れた校舎の壁と、そこに張り付く窓のサッシ、そして窓枠に手をついて驚愕の表情で身を乗り出す浅井くんだけであって。


「ハッ!今回も俺の勝ちだな浅井!」

「なっ、おい――」


浅井くんの声が遠くなって、ついでにお腹に回っていたはずの腕の感覚もなくなった。ぶわりと反転する視界に自分の体が宙に放り出されたことを知る。いつだったか「落下してる瞬間って空飛べてんじゃね」とか思ったことがあったがそんなのは全く嘘だ。現に私が体感しているのは浮遊感に勝る下からの風圧で、捲れ上がるスカートとかボサボサな髪とかよりも気にすべきは生死のアレなわけであって――


「ぎゃあああああああ!!!!」


――ザブーン!!!
一人無様な絶叫を迸らせて窓から落ちていった私を次に待ち構えていたのは、しかし地面との衝突ではなかった。高い水柱が上がり、それに見惚れる間もなく体を冷たい水が包み込む。自分の足が頭よりも高くにあると思えば、覆いかぶさるように伸ばしかけの髪がもさりと視界を覆った。


「ぶっはああ!」


必死にもがけば両腕に絡まる重たい水。水面に這い出た瞬間ははっきりって「私☆再誕」的な感覚を覚えた。そのくらい、九死に一生スペシャルだった。


「おー生きてたか」


鼻に入った水と格闘している私に声をかけてくるのは、当たり前だが長曽我部くんだ。既に遠くなった2階の窓からは浅井くんが何事か叫んでいる。


「ほら、言った通りだったろ」

「な、な、な…っ!」


あまりの衝撃に言葉もでない私に長曽我部くんは笑う。「間抜け面だなあ」としみじみしている場合か。私はこれでもすっごく怖かったんだぞ。一瞬本気で死んだかと思ったんだからな。
言いたいことが山積み過ぎてぶるぶると拳を振るわせるしかない私。最早怒りからなのか衝撃でどこかがおかしくなってしまっているからなのか分からないが、取り合えず一発殴らせてほしい。文句を言うだけじゃすまないだろう。いくら何でも全く無害な人間抱えて窓から飛び降りるか、普通。
脳内を賠償とか謝罪とか小難しい言葉が飛び交う中、私はぐわっと右腕を振り上げる。身長差があって顔面は難しいから、ボディにでも入れてやれ。衝動が駆り立てるままにざぶざぶと水を掻き分けて突進しかけた時、しかし長曽我部くんがまた一つ笑ったのだ。あの、悪辣極まりない男前な顔で。


「楽しかっただろ?」


ニタリ。
……………。


「………た、」

「ん?」

「…たのしかった…ですううう〜…」


んなわけあるかという言葉の代わりに大量の涙が溢れてくる。小刻みに震えながら言い放った私に長曽我部くんは「マゾだなァ」と言った。
何この人。本当に鬼か。



p o o l



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