どうしてこうなったのか。そんなことはとうに忘れてしまった。
――などと言えば聞こえはいいかもしれないが、忘れてしまったというよりはそれ以前にどうして自分がこの状況に陥ったのかが分からないのだ。つまり事は突発的に、そして私の与り知らぬところに端を発していたわけであって。


「なにグダグダ考え事してやがる!ぼんやりしてっととっ捕まるぜ!」


知らぬ間に顔を俯けていた私に3メートルほど先から檄が飛ぶ。野性味溢れた渋みのある声は同年代にしては落ち着いていると思うのだが、それは声の問題だけではないらしい。こんな状況にあっても落ち着いて…というか、飄々とした態度を崩さない彼には尊敬の念を抱かざるを得ない。例え事の起こりが彼の素行の悪さにあった上、顔は物凄く悪辣な笑みを浮かべていたのだとしても。


「ま、まって、わたしっ、も、もう、はしれな…っ」


打って変わって私はといえば最早昏倒寸前の体である。十数分前に始まった追いかけっこは日頃から運動不足を嘆かれる現代っ子の代表格たる私にはまるで自衛隊の訓練のような過酷さだ。以前面白半分に友達と始めたブートキャンプもかくやという現状に、普段は思い出しもしない某隊長の顔が走馬灯のように思い浮かんだ。(しかし突き立てられた親指が異様に爽やかで苛立ちを覚えるだけだったが)
ふらふらと覚束ない足取りで必死に走る私とは違い、前を行く人物は疾風を巻き起こすかのように手足を動かし続けている。大きな体はまさに一陣の風というにふさわしく、すれ違う人たちが驚いたような顔で振り返るのがよく見えた。中には先生の姿もあって、実はその度に大声で注意をされているのだが、彼の耳には都合よく届いていないらしい。


「オラオラオラ、どかねえ奴は怪我すんぜー!」


どこぞの暴走族かと思うような大声で廊下を走り抜ける彼。その後ろを必死の形相でついていく私とは全く相容れないはずのその人物は、何を隠そう我が校の誇る不良様であった。
銀色の髪に大きな眼帯がトレードマーク。正直普段は「それ前見えてんの?ていうかオシャレだと思ってんの?」くらいにしか思っていなかったのだが、実際の彼を前にしてみるとそんな軽口を叩けたものではない。
兎に角そんな私と彼は本当についさっきまでは全く面識などなかったはずで、いや本当なら同じクラスだから面識くらいはあってもいいんだけど、クラスの隅っこに生息する女子生徒D程度の私はきっと彼には認識されていないんだろうなあとそう思うわけであって。


「またんか長曽我部ええええ!!」

「ハッ、しつこいねえあの野郎も」

「ひええええ!!!!」


どうして私が彼なんかとこんな逃走劇を繰り広げているのか、どうして正義感溢れる風紀委員さんに追いかけられているのか、どうしてこんなに死にそうになっているのか――離せば長くなるだろうが、敢えて一言で言うならばこうだ。私は、ただのクラスの隅っこに生息する存在から、巻き込まれた哀れな女生徒Dへと謎の進化を遂げたのである、と。


「はっ、ひいっ、はあっ」


本当に死ぬんじゃないかという息の荒さに視界が霞む。あまりの私のなよっちさに振り返る長曽我部くんは呆れたような顔をしていた。その顔に「巻き込んだのはそっちだろうが」と言いたくなったが、そんな言葉を発したら色んな意味で最後だと私の直感がはっきりと告げていたので、無駄な酸素を使うことはせず上がる息を少しでも楽にすることに専念する。


「おめえさんホントに弱っちいなァ」

「わっ、わたしはっ、体力っ、ないんですうう!」

「あーまあなァ。見るからにそんな感じだけども」


やや失礼な風情で長曽我部くんは納得の声を上げるが、私がもっと強ければ侮辱罪で訴えているところだ。例え自虐的な発言はしようとも他人に貶されるのには何となくプライドが立ってしまう、哀れな女生徒Dはそういう生き物なんです。
そんな私を興味のなさげな視線で一瞥して長曽我部くんは再び走ることに戻っていった。
ちらりと見上げる横顔は、なるほど周囲が騒ぐことも納得できるほどには整っている。屹立する長身とがっしりした体つき、大仰な振る舞いも相俟って不良の名を欲しいままにしている彼であるが、ふと口を噤む一瞬の表情はやけに美しいものであるように思う。決して女性的とかそういうことではないのだが、「格好いい」とか「イケメン」というよりは「美しい」という言葉が似合っているような気がした。ああでもよく彼といがみ合っている隣のクラスの毛利くんや竹中くんの方が「美しい」っぽいかもしれないから、言うなれば「色男」の方が適しているかもしれない。

などと本当にどうでもいいことを考えているうちに一つ廊下が終わりを告げる。1階の突き当たりまで到着してしまったらしい私たちの正面には壁、そして右手には階段が控えている。少し下れば昇降口という選択肢も加わるのだが、悲しいかなそこには既に背後から追ってくる浅井くんが迫っていた。


「待てえええ!!」

「ひえっ!」

「…ちっ」


張り上げられた大声にさえ見事にビビる私と違い、長曽我部くんは面倒そうに小さく舌を打つ。どうするのか従うしかない私には判断がつかないが(というかもう開放して下さいというのが一番だが)、そんなことなど意にも介さず思い切り左腕を掴まれ、そのまま階段へと突進していくではないか。


「えええええ!ま、まだ逃げるんですかー!」

「あたぼうよ!何があろうとこの長曽我部元親、鬼にはなっても捕まる側に回ることだけはしねえからな!」


何 だ そ の 恐 ろ し い ポ リ シ ー は !
確かに長曽我部くんは一部で「鬼」と呼ばれては恐れられたりしているらしいが、ごくごく普通の高校生でしかない私はそんなの知ったこっちゃない。というかよく考えればしょっちゅう鬼ごっこの“捕まる側”になっている気がするのだがそれはいいんだろうか。恐らく長曽我部くんのことだから「捕まってないからいいんだよ」とか言いそうではあるけども。
長い足をフル活用して一段抜かしに階段を駆け上る。腕を掴まれている私も当然それに従うことになるのだが、実を言えば先ほどから3回くらい段差に蹴躓いていた。ギリギリで回避してはいるものの、角にぶちあたった親指がもげるかと思うくらいに痛みを訴えている。


「ちょ、ちょうそかべっ、くんんん!」

「くんんんって何だ」

「わ、わたしはもう、だ、だめで、すー!このままじゃっ、あ、足手纏いにっ、なるからっ」


だから、私を解放してください。やや遠回しにそう訴えれば、感情の読めない瞳が数回瞬きによって目蓋に隠れた。ああ、この人すんげえ睫毛長いんだ。色素の薄い瞳も少し異国めいていて綺麗だなあ。見詰め合う数秒の間にそれだけのことを考えられた私の脳みそを少しだけ褒めてやりたい。
しかし長曽我部くんはそんなことを当然知る由もなく、何を思ったか一層強い力で腕を引っ張ったついでにどうでもよさげにこう言った。


「それでも俺は構わねえがよ。いいのか?」

「はっ、な、なにがっ」

「浅井の後ろから追っかけてきてんの、アレあいつの女だろ」

「!!!!!!」


なん…だと…?
階段を登りきり廊下に入ったところでそっと背後を振り返る。すると丁度階段を登り終えたらしい浅井くんのうざったい長髪が目に入り、更にそこから視線を外すことなく暫し見つめていると、影のような漆黒の人影がぬらりと現れたような気がして――


「どうして逃げるの…?もしかしてこれも市のせい…?」

「うえええええ市さまあああああ!!??」



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