人間の腕は大きく横に伸ばすとその人の身長ほどの長さであるという話を聞いた。けれどあの人の腕は恐らくその身の丈よりもやや長く、広げた両腕で何でも包み込めてしまえるような気がしていた。それだけ彼の腕は逞しく、背中は大きくて頼りがいのあるものに見えていた。
けれど私がそう言うと、彼は少し哀しそうな顔をして言うのだ。自分には腕などついていないのだ、と。


夏の終わりと秋の始まりは大抵曖昧なものである。葉月の終わり頃から蝉の鳴き声の中に鈴虫の羽音を聞くようになり、道に落ちる陰が少しだけ青みを帯びたことに気付いた時には既に夜の来るのが随分と早くなっている。連日の猛暑で燻るような日差しはまだまだこの肌を焼くようだったが、見上げた空には気の早いトンボたちが数羽ずつ群れになって乾いた匂いを孕む風の中をすいすいと泳いでいるようだった。


「こんにちはー」


私はお気に入りの生成りの日傘を閉じると同時に、張り出した庇の陰に隠れるように足を速める。観音開きの扉は通風のためか今は大きく開かれており、はめこまれたガラスは積もった埃が窮屈そうにへばりついていた。
私が少し声を張り上げると店の奥から人影が現れる。のたのたと足元の覚束ないその人は、数十年来この店を守っているおばあさんだ。


「おやおや、これはまた珍しい子がきたもんだ」


首から下げた老眼鏡を震える手で装着し私の姿を認めると、まるで自分の孫を迎えるように柔らかな笑みを零してみせる。


「お久しぶり、ミツエちゃん。今日は花束をもらいにきたよ」


ミツエちゃんとはこのおばあさんの名前だ。何故既に腰の曲がった彼女をわざと少女のように呼ぶのかと言えば、かつて共にここを訪れたあの人が、いくつになっても女性は少女のように扱うのだと教えてくれたからである。
一見してフェミニストという言葉などは連想できない人の口からそんな言葉が放たれたとあって、あの時は心の底から驚いたものだ。いきなり深夜に敵対する組がカチコミに来た時も、道端でわき腹を刺されそうになった時もこれほど驚きはしなかったと思う。
そんなわけで私は今でも親しい女性は必ずちゃん付けで呼ぶことにしている。周囲には気味悪がられることもあるが、あの人の教えなので別段気にしていない。しかしあの人は一度として私のことを“少女”扱いしたことはなかったような気がするが。

紐をくくりつけたレトロな花柄のがま口財布を取り出して代金を払う。店頭に出来合いの花束もいくつか並んでいたのだが、人のいいミツエちゃんは態々新鮮な切花を出してきてくれたのだ。しかも、おまけにピンクの小花も添えて。


「ちょっとミツエちゃん、いくら何でもピンクはないんじゃないの?」

「ピンクが女のものだって誰が決めたんだい?今は男の人だって可愛く着飾る時代なのよ」


渡す相手を想像して眉を顰めた私にミツエちゃんは悪戯っ子のような表情を浮べてしたりと笑う。目尻の笑い皺が一斉にくしゃりと深まって、まるでしわくちゃの梅干しみたいだ。けれどどこか本当に少女のようなあどけなさを残すミツエちゃんのまあるい笑顔が、私もあの人も大好きだった。
まあ、お互い素直なんて言葉はお母さんのお腹の中に忘れてきたもんだから、一度としてそう口にしたことはなかったんだけど。

1000円程度の安い花束を古新聞に包んでぶら下げる。花が痛むから本当は花頭を下げて持ち運ぶのが正解らしいのだが、正直結構邪魔臭い。手持ち無沙汰にぶんぶん振り回すと案の定いくつかの花からはらはらと花弁が散ってしまった。
ちらりと振り返ると親に手を引かれた男児がその花びらと私をかわるがわる見比べるようにして視線をさ迷わせているのが見える。それに気付いて親も私に目をくれるが、振り向いた私と視線が絡むや慌てて胡散臭い笑みを形作った。ふん、洟垂れ小僧によく似た面構えの母さんだこと。



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -