長い廊下、長い階段、高い天井のエントランスを抜けると正面の玄関口に出る。
いつも以上に静かなそこを目の前の彼を追い越さぬよう気をつけて走り抜ければ(私の足の長さでは彼の歩調に合わせることすら一苦労なのだ)、電灯の一つも灯されない空間に一気に外界の光が飛び込んできたのが見えた。


「…挨拶は済んだのかね」


“彼”が両開きのドアを無遠慮に開き、それと同時に聞こえてきたのはしゃがれたような老人の声。それに一瞥のみをくれて“彼”がその人の前を通り過ぎると、私もそれに付き従うように表にまろび出た。
履き慣れない細いヒールの靴は一々つま先を痛めつける。けれど私はにっこりと最大限の笑顔を作って見せた。貧相なこの私が精一杯美しい花に見えるように、人生で一番綺麗に微笑んでいるつもりだ。

それを見て老人をはじめとする黒い集団は吐息を零すような声を漏らした。どうやら及第点がもらえたらしい。私は荒れて醜くなった手のひらを覆い隠すように装着したシルクの手袋で拳を握る。
手のひらに柔らかくなじむそれは、昨晩“彼”が私に放るようにしてくれたものだ。まるでゴミか何かを投げつけるような仕草ではあったものの、これは“彼”が初めて私に下さった贈り物に相違ない。その事実がとてもとても嬉しくて、夕べ私はこの手袋を(決して皺になどならないよう丁寧に箱に入れたまま)抱くようにして眠りに就いたくらいだ。
ドレスを見立ててくれたのはスクアーロとルッスーリアらしいが、それに負けないくらい美しい白の手袋。いつだったか観に行ったオペラでお姫様がつけていたようなそれは、こんな黒尽くめの集団に紛れた場所でもまるでスポットライトに輝くかのように私には見えた。

ぎゅっと手のひらを握る度に飛び上がりたくなるような嬉しさがこみ上げてくる。
私は周囲の促すような声を聞きつつそっと足を踏み出した。遠く離れてしまったとしても、この手袋さえあれば生きていけるような気さえした。

――と、その時だった。


「――…っぎゃ!」


ガタイのいい男性数人に囲まれ車に乗ろうとする私の左腕を無言で立ち尽くしたままだった“彼”がふいに掴み上げたのだ。
文字通りまるで技をかけるようにひねり上げられたそれに私は醜く悲鳴を上げてしまった。肘が変な方向に曲げられて凄く痛い。ギリギリと音を立てそうな腕にじんわりと涙が滲む。折角綺麗に整えてもらったのにと必死に奥歯をかみ締めるが、痛みは一向に治まりそうにもなかった。
恐る恐る顔を巡らせるが肩越しにしかその人の顔は確認できない。不機嫌とも哀憫とも取れぬオーラを醸し出しているのだろうが、如何せん彼の内なる“炎”というものの仕組みを私はまだよく理解できていなかった。
それゆえ今“彼”がどのような心情からこの行動に出たのかがさっぱり分からない。ただ伝わるのは腕をひねり上げられた痛みと圧迫するような体温ばかりで。


「…ぼ、ボス!」


堪りかねたような声で誰かが声を上げた。恐らくは背後に控えていたルッスーリア辺りだろう。らしくないネクタイとスーツスタイルに笑いの代わりに涙がこぼれそうだったのは私がまだ弱いせいだろうか。


「………っあ!?」


――などと不埒なことを考えているのを見抜かれたのか、ひねり上げられた腕の先に鋭い痛みが走るのを感じた。ちくり、なんて可愛らしいものではない。さながら猛獣が獲物の肉を引き裂くかのような熱い痛みが私の指先、それも薬指の辺りに走ったのだ。
ぶちっと皮が裂ける音が聞こえて私は思わず腕を引っ込めた。迸る激痛は熱へと姿を変えてこの指先を焦がしていく。
抱えるようにして腕を取り戻せば、予想と違わず無残に噛み付かれた薬指があった。容赦なく歯を立てられたのだろう、犬歯の辺りは一層深く傷ついているらしく後から後からあふれるようにとめどなく赤黒い液体が流れ出しているのが見えた。


「……あ、やだ、うそ…っ」


その光景に私は心から動転した。勿論原因は指を噛まれたからだとかそんなものではない。“彼”からもらった純白の手袋が見る見るうちに真紅に染められていくのが恐ろしかったからだ。
一気に顔色を失くした私に気がついたのはスクアーロだった。“相手”の前であることも忘れて前に飛び出すや労わるように私の横に座り込む。彼の頭越しに見える日光は珍しい銀髪を照らし出し、それがとても美しい宝石であるかのように輝くのを見た。
「大丈夫か」スクアーロが、そのようなことを叫んでいる。


「…あ、ああ、ああァあああぁぁあああ…ッ!!!」


狂ったように叫び声を上げてしゃがみ込んだ私に側近の人々はぎょっと目を見開いた。それまで聡明な笑みを湛えていた女が突如奇声を上げ始めたのだ、それは当然の対応といえるだろう。


「いやああああ!て…って、ぶくろが…っ!」

「ゔぉぉい!名前!落ち着けぇっ!!」


誰の言葉も耳には入らない。ただ目の前で美しい白が死んでいくことばかりを私は感じていた。
騒然とする正面玄関でしかし一人“彼”だけは笑っていた。発狂する私を尻目に、もう用はないとでも言うように向けられた背の向こう側、確かにその人物は嗤っていたのだ。


『今日からお前は、俺の奴隷だ』


囚われたあの日の言葉が耳に幾度もこだましている。玩具のように躾けられた私は、例え“彼”がその存在に飽きようともその手から逃れることは出来ないのだ。



愛でたい



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