こわいのよ。いつだったかなんてとうに忘れてしまったけれど、彼女は確かに消えそうな声でそう呟いた。もともと儚げな見目をしているものだから、窓から漏れ入る昼過ぎの柔らかな光と一緒になってそれこそ空気に溶けてしまいそうだったことを覚えている。とは言え彼女はきちんとこの世に生を受け、また物理的にこの場に存在する人間であるのだから、いまこの瞬間にゆらりと消えてしまうだなんてそんな非科学的なことが起こることはないと僕は知っていた。知ってはいたのだけれど、やはり人間の理性と感情は別個に働くものらしいので、僕は唐突に不安になってしまったのだ。勿論それをそうと口に出すことはしないけれど。強いていうなら丁度その時飲んでいた、いかにも不健康そうな色合いのサイダーが、彼女の纏う白いワンピースにぽたりと染みを作った瞬間のような。色濃く残ることはないのだけれど、ふと目についてしまう一点の汚れにその時の感情は酷く似ていると思った。
なにが?僕はどこからともなく湧き上がるその感情に目を向けないよう必死になるあまり、つい素っ気ない言葉を選んでいた。せめて「どうして?」とでも聞けたらよかったのに、僕の視線は読みかけの文庫本に落ちたまま彼女を捉えようともしなかった。そもそも僕は何においても執着というものがないようで、彼女を近しい存在としてそばにおいていることさえも他人からしてみれば不思議なことであるようだった。ほんの少しの要素で構成される僕の世界。世間一般から見ればごくごく小さなその空間は、他者が入り込む余地などありはしない。散らかっているわけではないけど、必要最低限のものしか入らない作りになっている。数少ない友人たちはそれを心配したり揶揄したりしたものだけれど、存外僕はここが気に入っているのだからしょうがない。大切なものは少しがいいんだ。この手に収まりきらないものなど重荷になるばかりでしょうがない。せめて空さえ見えるのならと、満足していたはずなのだけれど。そんな物思いに耽っていると、少し離れた場所で柔らかい髪をそよがせていた彼女が小さく笑う気配がした。光と酸素に溶けてしまいそうな彼女が震えるように肩を動かすと、その部分だけ輪郭がぼんやりと浮かび上がる。足を伸ばせば触れ合う距離でそれでも寄り添いあうことのない僕たちは、二人であって決してひとつではない。
あのね、笑わないでね?既に一頻り笑った後のような風情で彼女は言った。甘い色合いの髪が揺れて、その下から白い顔が覗き込むように現れる。今さら何を感じるわけでもないのだけれど、彼女と手元のサイダーのコントラストが目に痛くて、顔を上げるふりをしながらこっそり目を擦った。
僕が笑うようなことがこわいの?はたりと軽い風を孕んで手元の文庫本が閉じられる。そういえば栞を挟むのを忘れたなあ、とりとめのない考えがぽかりと宙に浮かんだが、彼女の丸い笑顔を見たら何だかどうでもよくなってしまった。
うん。彼女は頷く。
あなたがそうやって喋ったり眉を顰めたり、ましてや笑ったりするたんびにね、私は私でなくなるみたいなの。そうして宇宙語を喋り出した。
どうやら私はあなたのことを私が思う以上、それこそ何百倍もだいすきらしいのね。なのであなたの仕草の一つ一つがばかみたいにいとしくて、それこそ全部を写真に収めて窓辺に飾りたいと思ってしまうの。私は毎日あなたのことばかりを考えて、今は何をしてるだろうとか、お腹を空かせていないかしらとか、大して大きくない脳みそと心臓で精一杯あなたを思うんだわ。でもずっとずっとそうしてるとね、そのうち脳みそや心臓からその思いが漏れ出すみたいで、私の体はだんだんあなたでいっぱいになっていくの。あなたもご存知のとおり、わたしは不器用な女だから、そうやって溢れたものをもともと私が持っていたものと区別するのがとても難しいみたいで。…何が言いたいのか全然わからない。宇宙語の翻訳はまだ現代でもなし得ていないんだから、僕のような大して語学に精通したわけでもない人間にそれを求めないでほしいものだ。けれど彼女はこわいこわいと繰り返して、その度に光に溶けそうな顔で笑って見せた。
…で?
ええと、そう、つまりはね。







まんまるの笑顔がサイダーのあおい光に溶けていく。どうせ光や空気に溶けてしまう彼女ならば、僕のちっぽけな世界に入り込んだところできっと誰も気づかないんだろう。

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