――ミーンミンミンミン
うるさいくらいの蝉の声が青い空に響く。気温は35度、真夏日を軽く超越したその暑さに地球温暖化の深刻さを思った。纏わりつく空気は熱く、白いセーラーの背中がじっとりと汗ばむ。帰ったら速攻でシャワーを浴びねば。

高校に入って三年目の夏。ずっと子供の振りをしているのにも限界が来て、とうとう今日になって担任に呼び出されてしまった。


『お前、進路どーすんの』


気だるい声が脳裏に蘇る。普段はダメ教師だのマダオだのと綽名される担任は、こういう時ばっかり逃げ道を与えてはくれないようで。ボサボサの銀髪もだらしない白衣もキャンディだと公言して憚らない咥え煙草もいつものことなのに、その僅かに赤みを帯びた瞳だけが私を問い詰めていた。そろそろ大人になる時間だ、と。


「…はあ」


どーすんのもこーすんのも、私にはまだこれと言った目標が見つかっていない。たった18年ぽっちの人生でこの先を決めろだなんて世の中は随分と残酷なことを要求するものらしい。くしゃりと手の中で汗を滲ませる進路希望の紙は、ぽっかりと浮かぶ入道雲よりも真っ白な色を呈していた。ああ、雨が降るかもなあ。

出来ることなら、といつも思う。出来ることならずっとこのぬるま湯のような温かい場所に留まっていたい。
窓際の一番後ろの席に腰掛けて、適当な授業を適当に聞き流す毎日。廊下側の席で神楽とキャサリンが聞き取りづらい喧嘩をおっぱじめたり、土方が沖田にこんがりミディアムに焼かれてたり、近藤が妙に半殺しにされてたり。端から見れば非日常と言えるだろう日常がいつの間にか私にとってはとても心地の良いものになっていて、未だにそこから抜け出せずにいる。


『あと半年もねぇかんな』


こともなげに言ってくれた担任が恨めしい。
あと半年。あと半年で、私の世界は簡単に終焉を迎えてしまう。そうしたらあの席から見える景色も二度と見ることはできないと言うのに。


「………」


いつも私の前で気持ち良さ気に机に突っ伏す、あの背中を拝むことができなくなるというのに。

嫌だなあ。小さく空に向かって呟いてみる。
大した会話をしたこともないのだけれど、あの背中を見ているのは好きだった。男の癖に逞しいとは言えない骨格、白いシャツから透ける派手なインナー、肩の向こうに揺れる悔しいくらいに艶やかな漆黒。どれもがまるでおとぎ話のような距離を持ってこの視界に映されて、そこだけが別世界のようだった。暑い夏の日に涼しい木陰を、凍える冬の日に陽だまりの温かさを。何かを埋めるようにただそこにある背中が、かけがえのないもののように思えてしまった。これも若気の至りというやつなのだろうか――


「無視かてめェ」


と、そこで私の嗜好はぷっつりと途切れた。途切れた、というか途切れざるを得なかったというべきか。
トボトボとバス停までの道のりにいくつかある角を曲がろうとした矢先、前方に進もうという意思とは反対の引力が働いたのだ。不意に私の左手首を捉えた何かが、踏み出した右足を思い切り滑らせる原因になってしまい。


「………」


何故か私は、こんな道のど真ん中で仰向けになってすっ転ぶという奇跡的な醜態を演じる羽目になった。


「…鈍くせ」

「いやいや元凶が何を」


薄暗い路地に立っていたのはさっきまで思考を占めていたあの人物。細められた隻眼の向こうに腹立たしいくらいの青が広がっている。
転がったままの私と覗き込む男。東京の片田舎にある路地とは言え、この時間帯にこの妙な体勢は人の視線が痛い(大して人通りもないけれども)。掴まれた腕はそのままに、しょうがねェなとかったるそうに言う高杉が私を思い切り引っ張り上げた。


「痛い」

「生きてる証拠だろ、喜べ」

「………」


滲んだ汗に砂がこびり付く。ジトリと目だけで非難を訴えてやったが、高杉は飄々とした態度でそれをかわしやがった。


「つーかこんなとこで何してんの。もうガッコ終わったよ」


授業中も不真面目な彼であるが、出席状況に関しても不真面目なのは言うに及ばず。大方今日も寝坊したのだろう、夏休み中ではあるが私のように進路表を出していない生徒に対して呼び出しがかかったというのに高杉は終ぞ姿を見せなかった。


「銀八怒ってたよ。俺の一日を返せって」

「知るかそんなん」


言葉通り、我関せずといった様子で高杉は歩き出した。相変わらず腹の立つ男だ。銀八の有給休暇が一日潰れることを哀れにも思ったが、私の手首を掴んでいた彼の右手が何の違和感もなく滑り落ちて掌に絡みついたことによってすぐに忘れてしまった。


「高杉」

「あ?」

「手」

「ん」


離せと暗に言ったのだが、どうやら通じることはなかったようだ。いや、この男の場合黙殺というのもあり得るか。
そのまま手を繋ぐと言うよりは牽引されるというような格好で引き摺られ、私は必死に高杉の後を追った。どこへ行くのか、どうしてあんなところにいたのか、何も告げられずに歩を進めるのはどこか気持ちが悪い。しかし濃い色のシャツを纏った高杉の首筋に汗の雫が珠を結んいるのに気付いてしまったから、どうしても悪態をつくことが出来なかった。


「なあ」

「ん?」


そして暫くの道のりを行ったところで高杉が漸く口を開いた。偶然赤信号に差し掛かり足が止まったせいかもしれない。


「お前、これからどーすんだ」

「これからって…」


そんなの私が聞きたいくらいだ。私は学校から帰ったら速攻でシャワーを浴び、クーラーをガンガンに効かせた部屋でゴロゴロするつもりだったのに。
そう言えば背中を向けたままの高杉が効くからに呆れたというような溜め息を落とした。隣に並ぶことも出来ただろうが、いつもの習慣が私と彼との間にこの位置を保たせている。


「違ェよ、察しの悪ィ女だな」


はあ、再び溜め息が落とされる。私はそんなにハアハア言われるような発言をしただろうか。失礼にも程がある。(言い返したらお前の言い方の方が失礼だと言われた)(何でだ)
高杉、と名を呼ぼうとしたが、目の前をゴウッと車が通ったせいで掻き消された。巻き起こった風に目を瞑る。同時にぎゅっと握られた手に力が込められて、思わずそのまま目をかっ開いてしまった。空気の粒子が目に痛い。


「…ちょ、あの「俺は」


おれは、の三文字の間にまた手の力が強まった。痛い。私の左手に恨みでもあるのかこいつは。
ふと見上げた空では入道雲がさっきより大きく誇張されているような気さえした。近付こうとしてるのは雲の方か私の方か。湿りを孕んだ風が私と高杉の間を駆け抜ける。


「高杉、」

「俺は、まだ」

「高す」


ぎ。一文字が私の口から零れて地面に落ちて砕けた。
ぐっと引かれた腕は思い切り伸びきり、先を走る彼の背に必死にへばりついているようだ。何を思ったかいきなり駆け出した高杉に、私の心臓はついていけないままでいるというのに。


「バカ杉てめっ、何いきなりはしゃいじゃってんのォォ」

「おめェ足おっせェな、そーいや体育祭でもビリッケツだったっけ」

「うるせェェェ」


訳の分からない言い合いが風に溶けては消える。そうした下らない言葉の羅列も、いつかは積み重なってこの空に届くのだろうか。

青春だなんてこの男には似合わない。だと言うのに今目の前を走る人物は思い切りその長い足を伸ばし風を切り、はためくシャツに汗を滲ませている。似合わないこと山の如しだ。青臭いだなんてとっくに卒業したぜみたいな顔してるくせに。
だっせーと言って笑ってやりたかった。だけどどうしてか私の口は戦慄いて上手く形を作ろうとはしてくれない。


「ちゃっ、ちゃかすぎィ!」

「いや誰だよちゃかすぎ」


楽しかったね、愛しかったよ。
こうしてアンタの背中を眺めるのも、あとほんの少し。


「私、今なら飛べる気がするんだけど!」


雨が、近付いている。





そこにはあったのだよ。
否、今ここにさえも。

(0808/おめでとう!)

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