――なきたくなるような しあわせをおもうよ。


天上には月が浮かんでいる。先日訪れた大風が地上に蟠っていた夏の名残を悉く攫い上げて、あっという間に季節は秋の色を呈している。
夜道ともなれば時折息が白くかすむようですらあった。寒いと人はどうして息を吐き出したくなるのだろう。そんなことをぼんやりと思えば、隣を歩く女は「それが遺伝子レベルで脈々と受け継がれる決して抗えない人間に課せられた行動規範というものなのよ」とやたら小難しい言葉を並べて結論づけた。



「これだから嫌だってんだよ、寺子屋の先公ってのはよォ」

「あら、銀さんの空っぽな頭に少しでも知識をぶち込んでやろうという私の愛情が分からないのかしら」



分かるわけもないだろうが。
にやにや笑いを浮かべるそいつに思い切り顔を顰めてやれば、また一つさも面白いというようにケタケタと笑い声を上げた。それと同時に淀みなく進んでいた歩調が少しだけ遅れ出す。カツン、木製のそれが地面とぶつかる音が一層高く夜の空に響いて、女は一瞬だけ不安定な肢体をぐらつかせた。



「っぶねェな。慣れねェ癖に意地張ってやがるとそのうち痛い目見るぞ」

「既に痛い目は見ておりますのでこれでも気をつけてるつもりなんですう」



素直になれない俺の言葉に、やはり素直になれない女はべっと赤い舌を突き出して返す。夕方を過ぎ急に冷えだした空気にさらされた手の甲は白くカサつき、そうして今その掌に女は松葉杖といういかにもなアイテムを握り締めていた。
利き足であるらしい右足には仰々しいほどの包帯とギプスが填められており、ぎこちない動作で松葉杖を動かす様はどこか滑稽としか言いようがない。



「何の障害もないようなところで滑って転んで足の骨折るような人間が言っても信憑性がありませんー」

「…それは私が鈍臭いとでも言いたいのかしら」

「べェっつにィ?まあオメーのような奴は日頃から気の張り方が不十分なんだとは思うけど」

「…中々言ってくれるじゃない」



カツン、カツン。規則的であるようで僅かに左右のバランスが悪い松葉杖は、不思議なリズムでもってコンクリートの地面を叩く。
俺の言葉にプライドが刺激されたのか、全く素直でない意地っ張り女であるところの彼女は分かりやすく頬を引きつらせた。



「あっれェ?何?怒ってんの?寺子屋の職員がそんなことでいいのかなァ。たかだか学のない男の一言にイラついてるようでいーいのーかなーァ?」

「………」



が、しかし俺も素直でない意地っ張り野郎であることは自他共に認める周知の事実だ。俯いた顔を覗き込むようにして態とらしく囃し立てる。
すると女は一層顔を地面に向けて黙り込んで、松葉杖を握る両手にぎゅっと力を込めた。そして訪れた痛々しい沈黙。馬鹿なことを馬鹿なツラと頭で言っていた俺も流石にその空気には気が引けた。
…アレ、もしかしてこれ泣いちゃった?いやいやいや、こいつに限ってそんなことないよね。ただ図星で言葉が出てこないだけだよね?

僅かな焦りを感じつつさっと姿勢を正す。俺の位置からでは身長の低いそいつの表情をうかがい知ることは出来なかった。ので、もう一度だけ僅かに身を屈めてその顔色をうかがおうとすると。



「…言いたいことはそれだけ?」



――修羅だ。修羅がいる。
その時俺はほとんど本能的ともいえる速度でそんなことを考えていた。にっこりと微笑んだその様は一見菩薩のそれにも見えるが、どこぞのゴリラ女しかり大抵こういう表情を見た後にいいことが待っているはずがない。
にこにこと音が立ちそうなくらいの笑顔は、けれど何か物凄い威圧感を孕んでいる。思わず腰が引けるほどのそれに俺がたじろぐのを見、そして女は再び口を開く。



「そうね、この怪我も全て私が悪いのよね。折角作った特大ケーキが潰れたのも、そのせいで今日の万事屋の食卓がえらい寂しいことになったのも、全部私のせいよね?」

「…え、あの」



そこまで言ったつもりでは。右手を翳してそう弁解するが、こうなった彼女に俺の言葉など届くはずもない。
天使と悪魔が一つ屋根の下でふしだらな同棲生活を始めるよりも質が悪い。我ながらよく分からない例えだとは思ったが、その時の女はまさしくそんな表情をしていたのだ。



「ふふふ、ごめんなさいね鈍臭い女で。今夜は冷えるし、このままここにいると鈍臭さに負けて貴方をぶん殴ってしまいそう。だから今日は帰るわね、じゃあご機嫌よう」

「…は!?」



そうして捲し立てるようにそう言って、女は薄暗い曲がり角を曲がろうとする。予期せぬ行動に俺はぎょっとして目を見開いた。
いやいや、ちょっと待てって!



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