そんなことを思っていると既に馬鹿になりかけている聴覚が誰かの声を拾い上げた。それまで聞こえていたものとは質が違う、甲高いとも言えるけど元々高く澄んでいるような。
どことなく聞き覚えのあるそれを耳元に反芻させながら誰のものだったかと考えあぐねる。走馬灯のように何人もの顔がざあっと視界に流れて、その内の一つが一瞬だけスローモーションとなって眼前を通り過ぎた。ああそうか、これはあの子の、「鬼」の声だ。


「(…って鬼?)」


気付いたと同時に気付かなければよかったという後悔が押し寄せる。
だって彼女はいつも俺を叱りつけた。絶対俺より年下のくせに、背も小さいし仕事量も(多分だけど)少ないくせに。下手をすると彼女の神聖な仕事道具であろう掃除用具や食器、調理器具、はたまた隊士の私物であろうイケないご本やDVDなどありとあらゆるものが飛んでくる。一つ一つなら大したことはないのかもしれないが、雨のように降り注ぐ攻撃にお花畑を流れる川を見たのは一度や二度のことではないのだ。

意識をした途端その感覚だけを捉えようと神経が過敏になる。監察の職業病だ。
何を言っているのかはまだ分からないが、突っかけているのだろうサイズの合っていなさそうな足駄がパカパカとうるさいのはよく響く。筋肉の凝り固まった首を僅かに動かすと予想通りの小さな影がまろぶようにこちらに駆けて来るのが見えた。不自然に両手を突き出している。今回はあの手で殴られる(もしくは叩かれる)のだろうか。

真っ黒い隊士たちの群れを掻き分けるようにして彼女がやって来る。足駄の鳴る音がゴジラの足音にすら聞こえてきた俺はそろそろ末期だ。渋い色の着物に妙な花模様の描かれた小袖が視界の隅にちらちらと揺れる。あれ、そろそろ夕餉を拵える時間だろうに、今日はあの似合わないフリフリエプロンつけてないや。
ぼうっとその生き物が近づいてくるのを、まるで死刑の執行を待つ囚人のような気持ちで見つめていた。あーやだな、殴られたら痛いだろうなー。怪我してんのは見たら分かるだろうから、少しぐらい手加減してくれたりしないかな「…っ山崎さん!」


「(………あ、れ?)」


着物の裾をはしたないくらいにたくし上げているせいで襦袢と生足が丸見えになってしまっている。慌てて出てきたのだろうか、やっぱりその小さな足を支える足打はサイズが合っていなかった。…ていうかそれ近藤局長のじゃないの。水虫とかいたらどーするつもりなの。
女の子がはしたないとか、怪我しちゃったごめんとか、年上ぶった説教や鉄拳に対する言い訳を散々用意していたつもりだった。けれど実際こうして彼女の顔を見たら、大きすぎる足駄で数歩の距離を飛ぶようにやってきた「鬼」の泣き顔を見てしまったら、もう何も言えなくなってしまっていた。


「…ば、ばかっ!やまざきさんのあほぉっ!」

「(バカとかアホとか…失礼な)」

「簡単な仕事って言ってたじゃないですか、すぐに帰って来るって言ってたじゃないですか」

「(言ったかな…あ、言ったなそれは)」


だってちょろいと思ってたんだもの。すぐに帰って来て、君の小言を聞きながら夕飯を食べられると思っていたんだもの。


「こ、こん、こんなっ、こんなけがっ、してっ」

「………」

「どれだけ人に心配かけたらっ、きがすむつもりな゙ん゙でずがぁ゙…!」


ああ、ごめん、ごめんよ。
声など出ないというのに、腕など上がらぬというのに。一体何に対する謝罪なのかも分からぬままに俺はそう口を動かした。かつてないほどに涙で顔をぐじゃぐじゃにした彼女に伝わったのかは分からない。自己満足だよ、だって本当にどうしていいのか分からないんだ。
ああ神様とやら。もしいるなら今から10秒でいいからこの腕を持ち上げるだけの力を下さい。思ったよりもずっとずっと泣き虫だったこの鬼の、頭を撫でて慰めるだけの力を俺に下さい。

ぐずぐずと鼻を鳴らして泣く彼女は、もう目も当てられないほどに不細工だったけれども、一方で誰にも見せてやりたくないくらい可愛い顔をしていると思ってしまった。本当に末期だ。思わず笑ってしまう。


「…ふ、はは」

「! っな゙、な゙に゙わ゙ら゙っ゙でる゙ん゙でずが!」


あ、腕じゃなくて口が動いちゃった。



ロマンチック



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