「…え?」
驚いたかのように青年が僅かに目を見開く。乾いた白目に黒目の輪郭が淡く溶け込んでいる。そんな微細な点まで観察できるくらい、妙に私たちの距離は近いものだった。
「…綺麗って、俺が?」青年が問う。
「うん」
「…何それ。少なくとも野郎に使う褒め言葉じゃないよね」
呆れたように、けれどどこか少し照れたように眉を顰めたその瞬間、彼が初めて人間に見えた気がした。
捕え所のないその人は輪郭さえも朧だったのだ。まるでこの夜に吹き抜ける風かのよう。確かに肌を刺していくのに、こちら側からは振れることすらままならない。
「照れてる?」
「何で照れなきゃいけねーんだよ」
冷たい右手によるチョップが私の頭頂部を襲う。手加減してくれるのかと思いきや意外に勢いのあったそれは頭蓋に響いて結構痛い。
私がその痛みを堪えつつ頭部をさすっていると、やる気が削がれたとでもいうかのように青年は既に片付けのためにこちらに背を向けてしまっていた。ガチャガチャと、私にはよく分からない色々な画材が適当な籠に放り込まれる。
「帰るの?」
「うん、もうここに用はないし。それに早いとこずらかんないとまたおねーさんみたいなのに捕まっちゃうからね」
「…どーいう意味だ」
目を眇めて疎んじるように言えばカラカラと笑ってごまかそうとする。
何やら本当に不思議な青年だ。今泣いたカラスがもう笑ったとはよく聞くが、そういうのとは全く違う。笑っていたのが嘘だったかのように冷たい表情をする癖に、決して感情豊かとは思わせないような。
行くよともじゃあねとも言わずに青年はスタスタと歩き出す。家に帰るというよりはどこか遠い世界に消えるというような足取りだった。つい追いかけそうになってしまうが、作業着の背中がその足を引き留める。
私もとっとと帰りたいのだがどうしてだかそれが出来ない。身動きがとれずにオタオタしていると、前方から落下するかのように声がかかった。
「ねえ!」
「えっ」
慌てて顔を上げると既に去りかけていたはずの青年が物凄く近い距離にいた。いきなり見上げた私は溜まったものではない。美形はまず心の用意をする猶予を与えてから人に声をかけなければならないのだ!
じっと見下ろされ居心地の悪さを感じている私に対し、青年は余裕の笑みを形作っている。綺麗、としか形容の仕様がないその表情にやっぱり私の胸はいちいち高鳴ったが、冷えた右手がすいっと伸ばされることできちんとその声を聞くことが出来た。
「さっきの台詞」
「え?さ、さっき?」
「あれは随分、見抜きやすいシンプルさだったね」
「…は?」
意味深な言葉に意味深な笑みを乗せ、ニーッと目の前の人物は口角を引き締めて笑う。歯は覗かせなかったがやっぱりチェシャ・キャットのようだ。そのうち顔のパーツだけを残して空気に溶けてしまうんじゃなかろうか。
呆然とする私など構わないというように、青年はすっと視線を上げた。ついでに私が握っていた棒付きキャンディもかっ攫い、今度こそ暗闇の向こうへ軽快な足取りと共に消えていったのだった。
「…ゆめ?」
青年が去って残された私には、ついさっきまでの一連の流れがまるで現実のものではないかのように感じられた。
それこそチェシャ猫にかどわかされたアリスのよう。歩き慣れた道だというのに、いきなり迷子になってしまった気分だ。
キャンディを奪い去られた右手は間抜けにそのまま掲げられている。それが本日やっとありついた唯一の食糧だということすら忘れ、私は暗闇の先に続く不思議の国らしき世界をじっと目を凝らして見つめるのだった。
時刻は午前0時ジャスト。何かしら不思議なことが起こってもおかしくはない時間帯だ。
――春は、まだ遠いというのに。
お皿の上のできごと
(おばけとふたりきり)
数日後、私はいつもの通勤路に放火事件があったことを耳にする。
それがあの青年の住まう世界では一大事件の序章であることなど、単調的な貧乏暮らしを繰り返す私が知るはずもないのだ。
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