取り敢えず向き合って言葉をかけられてしまった以上何かしらの会話をしなければいけない気がする。手持ち無沙汰に食べかけのキャンディの棒をくるくると指先で弄ぶのにも限界がある。
「えーと」なるべく青年の目を見ないように私は言葉を選ぶ。
「あ、あのさあ、それ、描いていいもんなの?」
わざと言葉尻を崩したのは恐らく年下であるのだろう相手方になめられないため。
とは言いつつ突如として現れたこの美青年、なまじ顔が整っているだけに年齢の判断がつけにくい。というか綺麗な人ってよく分からない圧倒感があるよなあ、と私は思った。
凡人の人権なんて、美形の前では風前の塵に等しい。
心中かなりドキドキしながら返答を待っていると、青年はきょとんとした顔つきで数回瞬きを繰り返した。けぶるように生えそろった睫毛が小刻みに頬に影を作る。
しかし直後、にんまりとさも面白いものを見つけたかのように笑って。
「…随分ストレートだね」
「えっ!だ、だってそれ他所んちの壁でしょ?落書きしちゃマズいんじゃないの?」
指差した先には落書きとはちょっと言い難いやたらと芸術センス溢れるいたずら描きが踊っている。他所んちの壁と言ったのはあくまで推測だったが恐らく外れてはいないだろう。第一ここは古びたホテルの外壁だ。
すると青年はまた言う。「落書きじゃないけどね」
「グラフィティアートっていう立派な芸術作品だよ」
「…いや確かにすっごい上手いけど」
注意をしていたはずなのにそこだけは納得してしまうかのように顎に手を宛てて言う。それだけでも青年は嬉しそうに笑った。「ありがとう」だなんて、まあ何て可愛らしい笑顔ですこと。
やっぱりドギマギしてしまうその美しい顔立ちは、どことなく不思議の国のアリスに出てくるチェシャ・キャットを思わせた。ニヤニヤという下卑たものではないにせよ、どこか掴み所がないというか何というか。
まあそもそもこんな時間に壁に落書きなんかしちゃってる時点で掴み所なんてないに等しい。にも関わらず話し込んでいる自分は物凄く滑稽に思えた。
「一応まあいけないことだから、これでも隠れてやってたつもりなんだけどさ」
「それにしちゃ随分堂々とやってた気がするけど」
「夢中になっちゃって」
だめだね、俺も。頭をかいて笑うその横顔から悪意というものは読み取れない。私自身人の心を読むことに特別長けているというわけでもないから当然なのかもしれなかったが。
「でもこんな時間にこんなことしてる奴を見かけたら、普通は黙って通り過ぎるもんなんだよ」
「…そう?」
「だって怖いじゃん。普通に考えてさ」
普通に、という言葉を繰り返して使う彼は、さも自分は普通ではないと言いたいかのようにも見えた。奇行と分かっていながら、その原動力は一体何にあるんだろう。
「もしかしたらものすごーく悪い奴かもよ、俺」
「…まさか」
「どうだか、世の中見かけじゃ分からないから」
このままおねーさんをパクリ――なんてこともあるかもよ。その一瞬だけ青年はそれまで湛えていた笑みを掻き消し、その瞳に物騒な光を宿す。しかしそれは男性が女性を見る…というか端的に言えば性的なものではなく、もっとどす黒い、獰猛で押さえ込みがたいものであるかのように思えた。
「…そうなの?」
怪訝に思って素直に問いかける。びっくりしたせいか、眉間に力が入ってやけに肩が凝る。
青年は返答をしなかった。しかしそのどこまでも沈んでいけそうな漆黒の瞳でこちらを見据えては決して逃そうとはせず、色のない表情でじっと私を観察しているようだった。
そうしてふっと再び口角に小さな笑みを灯す。
「…もしかしたら、の話だよ」
安堵とも侮蔑とも喜びとも思えない、シンプルなのに複雑な笑顔で目を細めて青年は曲げていた腰を伸ばした。ずり下がったニット帽を直す指先が白い。放っておけばそこから闇夜に溶けてしまいそうだ。
「でも、本当に気をつけた方がいい。シンプルな思考ほど見抜きにくいものはないから」
性欲とか、ね。そこだけ僅かに苦々しく言い放った青年は、その割りにとても美しい生き物であるかのようだった。古代の彫刻を思わせる高い鼻を強調するシャープな輪郭、闇を見据える瞳はこの世ならざるものすらも映し出しそうだ。
「…綺麗だから」
そう思うと何だかやりきれなくなって、気づいたら言葉が口を滑り落ちていた。
「綺麗だったから、見てたんだよ」
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