「…あ」


ふと目についた鮮やかな色に思わず声が漏れると同時に、口の中でコロコロと転がしていた棒付きキャンディが唇を滑った。
危ない危ない、あとちょっとで落とすところだった。本日漸くありつけたご飯だというのに落とすようなことがあったらそのダメージは計り知れない。いや食べるけどね、例え地に落ちて泥まみれになろうとも水道で洗って食べるけどね!
因みにただいま午後11時37分。そろそろ春も近いのだろうが、ここ仙台の空では未だ寒々しい空っ風が幅を利かせている。吐き出した息は白く濁り、天井にちらほらと瞬く星達を一瞬だけ掠めさせた。

車通りが多いとも少ないとも言えない道路脇の歩道は私の通勤路となっている。
高校卒業後、進学するアタマもなければ就職するアテもなくフラフラフリーターを初めて早ピー(自主規制)年。いつまで経っても店長に頭が上がらないバイトの身、ボロアパートの家賃やら何やらで生きていくだけでも精一杯な、けれど春は未だ遠い冬の終わり。
私はここ最近、とても不思議な光景を目にしていた。


――プシュウウウウ!!
どこか間の抜けた音を立てて勢いよくスチール缶から塗料が飛び出す。小気味よくそれを持つ手を上下左右に動かして、暫くすると残量を確認するかのようにカラカラと缶を振る。その繰り返し。
ただそれだけの動作だと言うのに、私の眼前には鮮やかな文字が浮かび上がっていった。薄汚れた壁に、赤い文字がよく映える。

突拍子もないその光景を私は驚きとも軽蔑とも言えない視線で見守っていた。ぱかりと開いた口はそのままに、ただつった多摩間その摩訶不思議な状況を眺めているという感じだ。

缶を振り回している――否、この表現は正しくない。正確にはスプレー塗料で壁面に文字を書いている人物は、どうやら男性であるらしかった。
だぼついた作業着を纏ってはいるもののその身がかなり細いものであることが分かる。目深に被ったニット帽で髪は隠れていたが、その上背や時折覗く横顔から結構な優良物件ではないかと予測できた。

――だからか、つい見惚れてし舞うのは。
いい遺伝子の宿主があればそれに反応してしまうのは最早女の性というやつである。(いや人間か?)兎に角私は表現のしようもない何かに足を囚われていて、まるで舞うように動くその人の長い手にすっかり目を奪われてしまっていた。


「…あのー」


我に返ったのは、何と直々に声を掛けられてからのことで。


「…へ?」


どれだけぼけっとしていたのか、口から漏れた間抜けな言葉に相手は少し怪訝そうな表情を浮かべているようだった。とは言えニット帽の下の出来事である、高い鼻筋と苦笑気味に形取られた口元だけでそう判断しただけのことだ。
くすりと笑ったその人は笑い方すらも綺麗であるようだった。弧を描く唇がまるで天上に浮かぶ月みたいだ。そうしてくすくすと小さな笑いを漏らしつつ、そっと頭のニット帽に手をかけて。


「おねーさん、何見惚れてんですか」


少しだけずらされた帽子の下から出てきたのはやっぱり美しく整った花の顔だった。少し冷たい印象もあたえるその相貌は、しかし大抵の女性のハートを捉えてやまないだろう造形をしている。
だもんで、思わず私も「…優良物件」と先程心中に浮かんだものすごーく失礼な言葉をぼそりと吐いてしまったわけで。


「え?何?物件?」

「はっ!いいいえ!何でもない何でもない!」


きょとんとした表情で聞き返され私は慌てて手を振ってごまかす。思えばこれがこの場における私の初めてのまともな返答だったのだが(いやその実ちっともまともではないですが)、青年はくすりとまた小さく笑いを漏らした。


「何緊張してんの。それとも仕事帰りで疲れちゃった?」

「い、いやそーいうわけでは…」


しどろもどろになる私に構わず肩を竦めて見せる。そんな姿ですら様になるのだから腹立たしいこと山の如しである。



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