――コンコン、
乾いた空気を震わせるように、閉ざされた一室にノックの音が響いた。「どうぞ」厚いドア越しに聞こえる声は心なしか弱々しいものであるような気がする。


「失礼します」


入室すべく足を進めれば、すっと彼女の纏う白が揺れた。薬品や古書の匂いが充満する場所に常駐しているというのに、その白がくすんだ日を誰も見たことがない。
それはこんな日でさえも同じことで、曰く「喪に服すことが特別であってはならない」という彼女の信念のためであるらしく。


「…そろそろ時間ですよ室長」


部屋の中は薄暗かった。いつもながら散らかった資料はそこここで小さな山を形成していて、文字通り足の踏み場もない。
その中で一際目立つ調度品が革張りのソファと彼の仕事場である机と椅子である。普段ならその上に突っ伏して意識もなく眠っているだろうその男は、今日ばかりは異様な体勢で椅子に腰掛けている。指を組み、まるで何かを考え込むかのようにそこに額を預ける様は、ただそれだけだというのに酷く痛々しいものであるかのように映った。


「室長」


男には聞こえぬくらいの小さな溜息を一つ落とすと、入室者である女は今一度声をかけた。それでもこれと言った反応は見られないため、満を持してその紙の海へと足を進める。


「室長、時間です「…分かってる。少し待ってくれないか」


今度は絶対に聞こえるであろう至近距離で声を発する。が、しかしそれを男は切羽詰ったような声で遮った。
伏せたままの顔がどんな表情を浮かべているのか、女の側から確かめることは出来ない。

女はまた一つ溜息を点いた。
男が背負う「室長」という名がどれほどのものか、彼女も理解しているつもりではいた。それは全ての責任を負う者、全ての命を背負って生きていく者。
言葉で言うのは簡単だが、実際にその役職を全うすることがどれだけ苦痛を伴うか。元来優しい性質である彼がその責務に耐えられるか、始めこそ高みの見物を決め込んでいた女も最近ではそれが出来なくなってしまっている。
情が移ったというほど簡単なことではない。その男性にしては細い肩に乗せられるものがどれほどのものであるか、知らないわけではないから。


「…コムイ」


そっと、彼の名前を――彼が親から賜ったもので唯一常に携えていられるものを呼んでみる。出来るだけ優しくと思い象ったその名前は、漸く男の耳に届いたらしい。


「…夢をね、見たんだ」


吐息を吐き出すように発された言葉はか細く、耳を澄ましていないと聞こえないくらいで。


「こんな馬鹿みたいな戦争なんてない世界に僕たちは暮らしているんだ」

「………」

「僕はまだ中国にいて、両親と、リナリーとお茶なんかをして」

「…ええ」


掌をどけ、ふっと顔を上げる男の横に女が寄り添う。


「空はどこまでも青くてさ、それで僕はリナリーの作った飲茶を食べて『美味しいよ』って笑うんだ」

「そうなの」

「…だけど」


ふと、男の表情が曇るのを見た。それまでも決して晴れ晴れとしていたわけではないのだが、その瞳には微かに希望のようなものが浮かんでいたというのに。


「だけどその場所には、教団の皆はいないんだ」

「………」

「科学班の皆も、アレン君たちも、元帥や…ヘブ君も」

「…コムイ」

「そして何より、」


――君がいない。
呟いて男は席を立った。途端元に戻る身長差に、女は少しだけ驚いて後退する。


「凄く幸せな夢だったよ。でも、何かが足りないんだ。心にぽっかり穴が開いたみたいで…凄く苦しい」


胸の辺りに手を置いて男はすたすたと歩みを進める。暗い部屋には僅かな明かりしかなく、それでも足は澱みなく動き出す。


「悲しいけど、僕たちは戦争によって繋がってるんだよね。きっとこんなことでもなけりゃ、教団なんてなかっただろうし」

「…そうかもしれないわね」


白い団服に袖を通し、男がすっと振り返る。いつも履いているサンダルの音はしなかったけれど、確かにこちらを向いたのが分かった。


「戦争なんて大嫌いだよ。でも僕は責任を果たさなければならない。命を落とした仲間たちに、いつまでも償いを続けなければならない」


長い腕が伸ばされる。そっと、包み込まれるのを感じた。


「…アレン君が、泣いていたわ」

「………」

「ラビもリナリーもミランダたちも…神田も、恐らくね」

「…うん」


言葉を発するたびに頭部と背中に当てられた腕が強くなっていく。抱き締められるというよりは、まるで泣き虫の子供が母親にしがみついているようだった。


「ねえコムイ、確かに戦争は醜くて、この世界はとても汚いわ」

「………」

「だけど、ね…」


私は、貴方に出会えて嬉しい。
少しでもその痛みに触れることが出来るのなら、とても幸せだわ。

しかし喉元まで出掛かった言葉を女は必死に飲み込んだ。そんなことを言える立場の人間ではないことなんて、自分が一番分かっている。
そうして回し掛けた手を躊躇いがちにぎゅっと握り、体重をかけるように凭れていた男の体からそっと離れる。


「…生きてねコムイ。どんな世界でも、どんな未来が待っていても」

「…君がいるならね」

「…"君たち"、でしょ」


少し顔を離してみれば、彼女はそれはそれは美しく笑っていて。
作り物のように美しい女の、痛みを堪えたようなその表情を男は知っていた。だからこそ彼も笑うのだ。狂おしいほどに叫ぶ心を押し込めた、泣き笑いの子供のような表情で。


暗いその一室を出れば、光が溢れていることを男は知っていた。
例えその先に、いくつもの棺が並べられた白い世界を見るのだとしても。


「…さあ、行こうか」



戦争平和


Thanx:飴売りの幻影様

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