「かーんだ」

「………」

「ユウちゃん」

「…下の名(ファーストネーム)で呼ぶなアバズレ」


ギロリ。殺意も露に口を開けば、しかし嬉しそうに綻ぶその白い頬。女のせいで濡れてしまった本を再度手に取ることで言外に「邪魔だ」と言ったつもりだったが、そんなものに頓着すらせずに相手はするりと腕をこの首に絡ませてきた。


「…何だ」

「いや、相変わらずいい男だなあと思って」


他愛なく零される言葉は、しかし確かに俺を翻弄させる。だが残念だったな、これがラビや他の野郎だったら、表面に出して喜ぶんだろうが。


「馬鹿馬鹿しい」

「何でよ。お得じゃないの」


ご両親に感謝なさいよね。言った女は今度こそちゃんと「大人」の顔をしていた。まるで子供を叱るように軽く眉を顰め、首に絡めていたはずの腕で俺の額を小突く。
それがどうにも不快で、彼女の言葉が耳に痛くて、俺は溜息混じりに本を閉じた。余りに力が強すぎたか、雨音だけが響く高い天上は割れたような音を弾かせる。


「神田?」

「…五月蠅くて集中出来ん」


女を跳ね退かすようにして立ち上がると、見た目以上に重さのない肢体はいとも簡単にソファに落ちる。振り返ることすらせずに談話室を去ろうとすると、何度目か、俺の名を呼ぶ声が聞こえた。


「あんたがそうは思わなくても、私は感謝してるのよ」

「………」


何を、とは問わずに置いた。無意識に足が止まってしまったのは、女の声がいつも以上に真剣味を帯びていたからだろう。それが彼女が意識してのことか、また雨音混じりになっていたためかは分からなかったが。

――ポツリ。また一つ、水滴が床に散る。


「運命論なんて信じないけどね。それでも、あんたとここでこうして出会えたことに必然性があったら嬉しいわ」

「…随分と矛盾してるな」


俺の言葉に女は笑う。顔を見ないままに聞くそれは、床に落ちる水滴のように軽やかで。
そして随分、女の生き様に似合うものだと感じてしまった。

そしてそれと同時に、廊下の向こうから聞こえるせわしない足音。甲高い声が、女の名前を呼んでいる。


「ねえ、神田」

「………」

「私ね、あんたに会うために帰ってきたんだよ」


バタバタバタ、喧噪にも似た叫び声と足音が迫ってくる。雨音と、女の声が掻き消される。


「生まれてきてくれて、ありがとうね――神田ユウ」


フルネームで呼ばれて、どくりと何かが動いた気がした。聞き慣れない響きのせいか、それとも例によってこの重苦しい天気がそうさせたのか。
ただそっと振り返った先に既に彼女の姿はなく、ただその足跡のように透明の雫だけが出口に向かって滴っているのが見えた。残像に映るのはこの空にも似た漆黒。


「…あ?」


ふと、足下に落ちた水滴に目がいった。そこに混じる透明以外の色。彼女がおおよそその表面上には持ち合わせない、随分と鮮やかな。


「………っ」


それが血液だと理解した瞬間、目眩にも似た感覚が俺を襲った。ああそうか、先程聞こえたのは婦長の声だったか。
窓を叩く雨脚は未だ弱まらない。のし掛かるように重々しい空は相変わらずで、この高い塔にいなければ押し潰されてしまいそうだ。

この国に来て何年経ったか。蓄積された日常の雨水は体内に巡り、俺の体に小さな海を作り上げた。
耳鳴りのように絶えず響くのは渦を巻く潮騒。遠く聞こえる雨の音がそれに被さって、嗚呼、空に潰されてしまいそうだ。

この体の許容量を越えた雨水は、姿を変えて体外へと押し出される。海水にも似た塩辛い液体が頬を滴って、彼女の赤を少しだけ濁らせた。




(0606/HAPPY BIRTHDAY)




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