――遠くで、潮騒に似た雨音を聞いた気がした。


英国という異邦にやって来て何に驚いたかと言われれば、その独自の文化や生活体系もさることながら、取り敢えずは四六時中空が曇っているということだろう。専門家ではないので詳しいことは知らないが、この国で太陽を拝むことは少ないような気がしてならない。
どんよりと濃灰色にとぐろを巻く重たい雲を、屹立する古めかしい摩天楼が必死で支え続ける。何千年という月日を経て国が出来上がるに連れ、人々はこの重苦しい空を押し上げる術をこの地に積み上げていったのではないか。そんな不似合いな言葉が脳裏に浮かぶほど、英国の町は暗く湿っぽい印象が強かった。

――ポツリ。そしてほら、今日もまた新しい雨粒の一滴目がこの部屋の窓を叩き始める。


ザアザアと絶え間なく降り注ぐ雨は、大地やガラス窓や家々の屋根を叩いて軽やかな音楽を鳴らしている。
夜半から降り始めたらしいのだがどうにも止む気配がない。偶然任務がなかったから良かったものの、外は結構酷いことになっているらしい。基礎部に大きな空洞を置くこの教団にあって、降り注ぐ雨水がどのように排出されるのか俺は知らなかった。しかし取り敢えず目の前の女の有様を見れば、その辺の管理がまた杜撰になっていることだけは伺い知ることが出来た。


「ただーいま」


音もなく談話室に入り込んできた女は濡れ鼠という言葉がぴったりなほどに全身に雨水を滴らせている。濡れそぼった黒髪を軽やかに掻き上げる度、またブーツの底をコツコツと鳴らす度に水滴が飛び散った。湿気で湿り気を帯びたフロアに一つ、また一つと小さな水溜まりを落とす女を、俺は言葉もなくギロリと睨み付ける。


「あらら、随分なお出迎えねえ」


大の男も竦み上がるというその眼光を、しかし女はサラリと交わして苦笑する。器用にも片眉だけをつり上げるその笑いはそいつ特有のもので、そんな仕草一つでさえもどこぞのバカ兎が言うには「東洋の神秘」なのだそうだった。
――それくらい、女は美しい容貌を持っていた。

びしょ濡れの外套を脱ぎ捨て何の頓着もなくそこらに放り投げる。びしゃりと重い音を立てて地に落ちるそれを、俺は視線だけで追いかけた。
女が近寄ってくるのを、その軽やかな足音と気配だけで感じていると、ふと視界を遮る色が見える。咄嗟の制止すら阻むその色は、俺とそいつだけが唯一生まれ持って体に宿す色であって。


「(ああ、リナリーたちもそうだったか)」


揺れる漆黒はしかし、彼女のあの透明感すら孕んだものとはまた違う気がする。そう、まるでこの国の空のようだ。重苦しいものを閉じ込めて、それでもひたすら美しく輝く。鋼のような光を抱く、女の持つ「黒」はそんな印象を相手に与えると言う。

目の前に迫る黒の中、唯一見える白は女の肌。普段は薄く色づいた唇は雨に濡れたせいか色を失っている。
余りにも近すぎる距離でぼやける視界の中、その青白い唇がそっと開くのだけを俺の目は捉えていた。


「ちょっと、折角帰ったんだからおかえりの一言くらいあってもいいんじゃなくて?」

「…服が濡れる」


そっと伸ばされた手や服からも未だに雨水が滴っている。丁度膝に置いていたハードカバーの本にも水滴がいくつか落ち、そこに書かれていた文字をぼやかしては霞の向こうに追いやった。

鬱陶しげに手を払い除けたせいか、女は少し拗ねたように口を尖らせる。確かこいつは俺よりも少し年が上だったような気がするのだが。
彼女が時折見せるその無邪気な表情は、どうしてかその年齢を曖昧にした。というか、この女はそういう境界線に生きているような気さえする。大人であって、子供でもあって。年齢でいったら既に「大人」であろうはずなのに、どうしてか放っておけない。曖昧な年齢のはずの俺たちなんかよりも、ずっと軽やかにその境界線を飛び越える存在であるように感じていた。
雨水が、また一滴滴っていく。



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