――夢を見た。
真っ暗な暗闇を行く、そんな夢。

上も下も右も左も分からないような空間に、私は一人でいた。どうやってここに来たのかも思い出せない。気付いたらここにいたというのが一番しっくり来るのだ。


『…どこ、ここ…』


風もない、匂いもない。ついでに何かを踏んでいる感覚も触れている感触もないこの空間は、私を酷く戦慄させた。


『(ここから逃げなきゃ)』


何に追われているというわけでもないのに、そんな焦燥感が好みを駆り立てる。しかしどこへともなく走り出した足は、その澱み無い動きに反して前へ進んでいる気がしない。まるで重たい泥の中にいるようだ。
酷く寒い…――怖い。


いい加減走り疲れ息も上がって来た。しかし止まったらもう終わりだという気持ちに駆られていたのも本当で。
ここで足を止めようものなら、その深淵に連れ込まれて二度とは這い上がれないような気がした。

だけどどこまで行けばいいのかも分からない。ただひたすら広がる空間はやはり暗く、頼りに出来るものなど一つもない。
手を伸ばしても先が分からない。声を嗄らし叫んでも響くものが何もない。

ただ孤独を感じるだけの空間は、私にとって酷く苦痛だった。この世の負の感情が一斉に体に入り込んで、そうして私が飲み込まれてしまいそうで。
父を亡くし母を亡くし、残ったのはこの身に宿る神様とやらの力だけ。イノセンスと呼ばれるそれは、私にとって絶望の証でしかなかった、のに。


『はあっ、はあっ――!』


一体どのくらい走ったのだろうか。もうダメだと膝の力が抜ける寸前、遠くに何か揺らめくものを見た気がした。

何だろう、目を凝らすがよく見えない。ただ確かにそこにあるのだけは分かった。
この空間で、黒以外に輝く何か。それが何であるかは私には分からなかったけど、それは嗚呼、きっと確かに――


『…赤い…?』


ゆらり、燃えるように揺れるその色。炎というにはやや暗く、血液というにはやや澱みを秘めている。
不思議な色を灯してゆらゆらと揺れるそれは、何故か私のこの瞳を惹き付けて止まなかった。世界は真っ暗だと思っていたのに、それだけは、その赤い色だけは、



「――…起きたか」


…目が覚めたら、目の前にあの赤があった。少し腕を伸ばせば安易に指を絡められそうな位置にあるそれに、内心びっくりする。
その上には見知らぬ天井。ていうかアレ…ここどこ。

ぼんやりと視界を巡らせれば手元の白に目が留まった。何故だか右腕が包帯でぐるぐる巻きにされている。あれ、ちょっと待ってホント。私一体どうしたんだっけ?


「修行中にヘマして腕折ってぶっ倒れたんだよ」


やれやれと言った感じの不機嫌そうな声が横から聞こえた。赤髪ばかりが先行していたが、そう言えばこれはあの憎たらしい男の所有物だったんだっけ。
ゆるゆると視線を動かせば、予想通り不機嫌というか、面倒そうな表情を隠しもしない反面神父が鎮座ましましていて。


「…あのう、ここは…」

「俺の愛人の家宅だ」


さらりと言ってのけられた言葉に一気に冷静になる。「ああそうですか」零れた声は予想以上に硬くて棒読み過ぎるものだった。

それにしても、ぐるぐる巻きにされた右腕を掲げ思う。骨折で昏倒とは情けない。嫌々やっていたのが裏目に出てしまったか。
どうせまた何ぞ小言でもあるのだろうと男に視線をやる。長年…というほど一緒にいるわけではないけど、両親の死後無理矢理引っ立てられ連れ回された生活の中で少しではあるがこの男の行動が読めるようになってしまったのだ。
今回は完全に私のミス。他人による迷惑というものを物凄く嫌うその男にとってはなってはならない事態でしかない。あーあ、今回は一体何と言われることやら。

襲い来るであろう罵声に身を縮こまらせ耳を塞ぐ(と言っても片方だけど)が、しかしいつまで経ってもそんな言葉は私に向けられなかった。
逆に恐ろしくなってそろそろと目を開ける。すると、じっとこちらを見据えている男とばっちり目が合ってしまい。


「…なん、ですか」

「………」


お得意の睨み付けでも嫌味ったらしい笑顔でもなく、ただ凝視しているというのが一番しっくり来るだろうか。独特な色をしたその瞳に見つめられるというのは、こんな状況下では正直いい気はしないのだけれども。


「…あ、のー…」


恐る恐る口を開く。すると男は「はあ」と大きく溜め息を吐き、まるでそれが決意か何かだったかのように次の瞬間こうのたまってみせた。


「お前は、誰のものだ」

「…は?」


いきなり発された言葉に思わず目が点になる。誰のものって…私は私なんだから、誰のものでもありませんけど!強いて言うなら私のものじゃい!
思った通りを口にしようと考えたが、それは一瞬にして霧散してしまった。何でかって、目の前の男の目が――何か人殺しのような光を宿していたからに他ならず。(怖ァァ!)


「誰のものだと聞いている」

「え、は、ええ…?」


質問の意味も、最適な回答も分からない。状況を解せず目を白黒させる私に男は少し背を屈めることで近付くと、耳元に唇を寄せる――まるで恋人同士のような仕草でもって――吹き込むようにして言って見せた。


「お前は、俺の何だ」

「…で、でし、です(かなり不本意だが)」

「弟子は師匠の言葉に従う、弟子は師匠に誠意を尽くす」

「…え、は、はあ…まあ」

「つまり、弟子は師匠の所有物ってことだ」


さらりと言ってのけた言葉に思わず大きな声が出る。いやちょっと待て。一体どんな流れでそんな話に?ていうか所有物って何だ!!


「俺は俺のものが壊れたり汚されたり、ましてやそれが他人の手によるものだったりすることが大嫌いだ」

「…はあ」

「お前は俺の弟子だが、血縁関係がないから他人でもある」

「???」


まるで問答のようなその言葉に脳味噌が追いつかない。弟子、でも他人?どーゆうこっちゃ。


「だから、他人のテメェが俺の所有物をどうこうすることは絶対にあっちゃいけねェんだよ」

「…な、何で」

「何でって…」


腹立つだろ、普通に。言った男は明らかに言動が普通じゃないと思った。だがそこは最早逆らえないと思っているので静かにスルーすることに。
私が頭上にクエスチョンマークを飛ばす傍ら、男は意味不明すぎる自分論を淡々と展開していく。



「お前は弱い」

「…はあ」

「自分自身で思っている以上に脆弱で使えない…ていうかもう何で俺の弟子なのかも最近よく分からなくなってきてる」

「………」

「いつまで経ってもイノセンスは使えこなせねェわ、賭博は強くならねェわ、作る飯はまずいわ酒は貢がねェわ色気はねェわ」

「え?何ですかこれ喧嘩売ってる?」

「…だけどな」



――数年前、両親をAKUMAに殺されたイノセンス適合者のガキを保護した。
すぐに本部に届けるつもりが、ものぐさにかまけていたらついついこんなにも長い時間を共に過ごしてしまった。

ころころとよく笑い、またよく泣くガキだったが、どうしてかイノセンスを使うことは大の苦手だった。闘うことを恐れているのか、逃げることを選ぼうとしているのか。
いずれにせよまあ俺には関係のない話だったが、何故か今もこうして共に生活をしているのだから俺自身がよく分からない。ただ、ある夜ガキが言った言葉がやけに耳に残っていて、それが確か数百年に一度だけ流れる彗星を見ながらのことで。


『赤い光をね、見たんです』


ただそれだけ。星が流れるよりも短い時間で、ガキはそれだけをのたまった。
全く意味が分からず数年を過ごして来たが、ああ、長い間一緒に入るってのは厄介なもんだ。少しだけでは在るが、そいつのことを理解しているらしい俺が存在し。


「(…ああ、何て忌々しい)」




「――俺の所有物であるお前が、俺の許可なく死に損なうなと言っている」


呟かれた言葉に思わず大きく目を見開く。
その人の頭上では、あの日見た美しい赤が吹き込む風にさらさらと攫われていた。



心を食らう生き物



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