もしも、女神というものがこの世に存在したとして、俺は恐らく、それはきっと目の前の女のような姿をしているのではないだろうかと思う。

――ふわり、
三分の一ほど開けられた窓からは外からの風が吹き込んでいる。春の終わり、少しずつ夏の匂いを孕み始めるじんわりと湿ったそれは、窓を鳴らしカーテンを揺らし、そしてベッドに腰掛ける女の髪をサラサラとたなびかせた。

特別な魔法を使ってんのよ、と、いつだったか女は笑っていた。魔法だなんてそんなガラかよ。その時こそ鼻で笑って返したものの、今となってはそれも強ち嘘ではなかったのではないかと思い直し始めている。…いや、こいつが使ってるのは魔法でも何でもない、ただの市販のシャンプーなんだけれども。
風が揺らしたそいつの髪は、この世のどんな黒よりも深いと思わせるほどの漆黒を湛えている。セーラー服には黒髪だと分けの分からない主張が成されて早3年。時々毛先を整えるくらいで伸ばされっ放しの状態のそれは、しかしどうにも暗ったい印象は持たせない。伸ばしていた前髪だけを眉毛辺りで切りそろえたのが丁度一週間前の話、それ以外の髪は既に肩甲骨を覆うほどまでの長さに到達し、女が俯いている今は顔の横から地面に向かって、垂直に影を作り出していた。


「(触り、てェな)」


欲望に忠実なお年頃、高校も最後の年を迎えた俺は夏も目前ということもあり色んな意味で真っ盛りだ。幼馴染とは言え年頃の女が白い素足を曝け出して真白いベッドの上に座ってるなんざ、目の毒以外の何者でもない。
ドクドクと脈を打つ心臓。耳まで届きそうな鼓動に俺の男の部分は正直に反応しかけている。(だから真っ盛りだって言ってんだろーが)


「くっそ、いってー」


並んだベッドに腰掛けるようにして俺は女と向かい合っている。それは別に何をしていたということではなく、偶々廊下で神楽と追いかけっこをしていた女が俺の目の前ですっ転んだから、だから保健室まで連れて来てやったと。ただそれだけの話であって。
盛大に擦りむいた膝を抱え、何の意味があるんだかフーフーと息を吹きかけているそいつ。だーからそんな短ェの穿くなっつってんじゃん。俺が言えばじとりとした視線だけが返って来る。


「銀が言うのはやらしー意味ででしょ」


つーか膝が隠れるほど長かったらそれはそれで危ないっつーの。相変わらずの減らず口で女は再び俯いた。邪魔そうに顔に影を作る髪の毛を耳にかける仕草、細く白い指が複雑に動くと、ただそれだけで興奮してしまう。


「…なあ」

「んー?」


ああ、いい加減消毒もしねェとなァ。無意味にベッドに座らせたまではいいが、色んな意味で俺がやばいんです。
ただの幼馴染だというのに、オトシゴロというのはそれだけで色々想像できてしまうのだから恐ろしい。これ以上近付いたらやべえよなー、なんて、思ってるだけに過ぎない俺がまた笑える。


「お前、」

「あたし?」

「やらしいよな」


すごく、と、付け加えるように言えば女は怪訝そうに眉を顰めた。揺れた髪が肩を滑り、白いセーラーの袖口で線を描く。


「何言ってんのあんた。ちょっと暑くなって来たからってもう頭に虫湧いたの」


毎日きっちり整えているのであろう眉毛がきゅっと寄せられる。こちらを見つめる眼差しは逆光の中僅かに潤みを帯びていて、それだけでも俺は劣情を擽られる。それに加えて極めつけは熟れた果実のような唇だ。さっきお妙と一緒に新製品のリップグロスがどーのこーのと言っていたのを考えると、まあこの不自然なまでの輝きは人工的なものであるらしいが。
そうと分かっていてつられるから、男とは物悲しいイキモノなのです。

ギシリと軋むベッドのスプリング。のろのろと緩慢な動作で立ち上がった俺を追うように動く視線。数秒の間立ったまま女を見下ろし、そして発見。


「(…あ、ムネ見えてら)」


セーラーの襟から除くのは僅かに膨らみを帯びた双丘。ラインに沿うようにして柔らかな黄色のレースが覆うそれを見ただけで、俺の喉は無意識に上下していた。


「銀?」


凛と響く、声。酷く潔癖かつ静謐な保健室にあって、ただ空間を淫猥なピンクで塗りつぶすその低く甘ったるい声音に、俺は悩ましげな溜息を一つ。
丁度昼時を向かえ西に傾いた日光が窓から入り込んで、それを背後に置く女は光に輪郭を溶かしている。髪と、セーラー服と、瞳の黒がいやに強調されている。後は白いだけだ。この部屋も、女の肌も、空気さえも白く塗装されている気がした。


「おーい、ぎーんちゃーん」


しかしお前の、その声だけは。その、唇だけは。
やけに俺を煽るその響きに既にこちらの息は上がりかけていた。無意識に気道が狭まり酸素が逃げていく。ドクリと熱く熱された血液は脳味噌に到達せずガンガン下へと流下している。

――嗚呼、畜生めが。

ぐらりと揺れた視界に身を任せ、俺は足元をふらつかせた。膝が折れガクリと地面にへたり込む。銀、と、女の声が聞こえた気がした。


「ちょ、どうしたの一体。何かおかしい…のはいつものことだけど、今日は輪をかけておかしいよアンタ」


あたしはいいからいっそあんたが横になったら。心配気とはほど遠い、寧ろ呆れの混ざった声で言う女。
吐かれる吐息さえも空気に混ざれば毒素に変わってしまう。酷く気持ちを高揚させる、甘く濃厚な蜜のような毒。ピンクと黒で彩られたそれに、哀れな俺は既に肺まで犯されている。

荒い息をまた一つ吐き出して。もう我慢がならねェと、何の前触れもなく目の前の白い素足に触れた。ふくらはぎに指を置き、ツッと指先だけを滑らせる。


「っ」


突然のことに驚いたのか、女は反射的に肩を跳ねさせた。強張る体が、一層のこと俺を煽る。


「っぎん、なに、あたし、怪我、して」

「うるせえ」


動揺しているのが言葉の端々に見て取れる。今更のように折り曲げた右足を戻そうとするが、そんなことは俺が許さない。せめてもの抵抗にと短いスカートを押さえつければ、支えを失った体が僅かに後方に揺れた。

そのまま太腿を掴み上げて少し持ち上げる。当然のことスカートも持ち上がるので女は慌てて制止の叫びを上げる。


「ちょっ!マジで何してんだっつーの!パンツ見えちゃうだろうが!」


女の癖して口が悪い。ついでに足癖も悪いので、一発強烈な蹴りが俺の即頭部に襲い掛かった。それがすごーく痛かったので、俺も仕返しさせてもらうことにする。


「…痛ェよ」

「っぃあ、ひっ…」


ビクリと大仰に体をびくつかせ、小さな悲鳴を唇から漏らす。睨みつけるようにして俺は女の膝を舐め上げる。傷一つない――とは既に転んでる時点で言い難いが、中学の時に馬鹿やってパックリ割れた俺のそれとは比べ物にならないくらい綺麗だと思った。
が、そんなことはお構いなしに女はぎゃあぎゃあと声を上げる。俺も負けじと患部をべろべろ舐めてやるのだが、それでもそいつの声は止まなかった。


「いっでええええ!いだっ!ばか!ぎん!いてえっつってんだろ!」

「…女の子がいてえとか言わない」

「うあああああだから舐めるなー!」


色気も何もあったもんじゃないその声は例えるならゴリラの産声のようだ。(いやどんなもんか知らんけど)
少しくらいアンアン言ってくれてもいいのにと、ちっとばかり気分を害した俺。不機嫌な瞳のままちらりと女を盗み見る。


「………っ」


と、予想外も予想外。そいつは思い切り眉毛を垂れ下げ目に涙を浮かべ、未だかつてないほどに「困ったー!」って顔をしていた。もっと言うと、すげェいやらしーカオ。
はあ、と、小さく漏れ出る吐息が艶かしい。潤んだ瞳は泣きそうなほどに涙を湛えていて、しかし奥歯を食いしばって女は必死にそれに耐えていた。泣くもんかとでも言いたそうなその顔つきは、ある意味では子供が必死に泣くのを我慢しているようにも見える。


「…痛い?」


傷口から口を離してそっと問いかける。するとやっぱり「いてえに決まってんだろアホなんじゃないの」という可愛げ皆無な返答が返された。
何だよ、それはそんな顔して言う台詞じゃありませんよ。


「嘘つけ、感じちゃってますーって顔してんぜ」

「し、してない!馬鹿!お前のエロ目で見るな死ね!」


…ホント可愛くねェな。
再びむっとした俺は人差し指で傷口をぎゅーっと押す攻撃に出た。擦りむいて出血もしていたのだからそれは痛いだろう、女は声にならない悲鳴を上げる。


「〜〜〜〜…っぐ…!」

「あ、いいねェその顔。泣いちゃいそうですげェ可愛い」

「こ、のっドS!きちくっ!」


ぜえぜえと荒ぐ息の中必死の抵抗。あらら、本当に泣きそうになっちゃって。
潤んだ目のまま睨み上げられるなんて、一体どこのB級官能小説の下りだよ。でもまァ、それに煽られちゃうところが、俺の俺たる所以なのであって。


「なあ」

「ひっ…、な、なに」


足から手を離したのに一瞬ホッとしかけた矢先、今度はベッドに両手を突いて壁を作って挟み込む。逃げられねェよと目で制すれば、理解したのか女は小さく喉を鳴らした。


「俺、ムラムラして来ちゃった」

「は!?し、しるかそんなん!」

「ツレねーこと言うなよォ。煽ったお前も悪いんだから」

「知らないよ勝手に右手とヨロシクやってろよ変態!」

「あー、今の銀さん傷ついたー」


態とらしく言って、至近距離で微笑む。そうすればほら、真白い肌がこの唇のように真っ赤に染まるのだ。


「どうスか、俺と一発」

「死ねえええええ!!」





Image:「抱き締めたい」/Base Ball Bear

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