※男装ヒロイン


「――お嬢さん、飴をお一ついかがですか」


低すぎず、高すぎない、美しい琴の音のような声色だった。
たった一言言葉をかけられただけ、その瞬間が脳裏に焼きついて離れないのだ。



「いっけいけどんどーん!!」


隣の教室の体力馬鹿の声が学園中に響き渡る。笑う子すら泣かせるのではないかと思うような声量に思わずとろとろと落ちかけていた目蓋を開いた。障子越しですらこれなのだ、近くにいるものは咄嗟に耳を塞いだに違いない。

授業のない午後というのは暇なもので、上級生と言えど忍務や実習が入らない限り思い思いの時間を過ごしている。例えば善法寺伊作は保健室に行っているのだろうし、食満留三郎は塗り壁の補修作業を後輩共と行うと言っていた。七松小平太は上記の通りで、中在家長次は大方図書室か自室で自主勉強だろう。同室の潮江文次郎はどこに行ったのか知らないが、十中八九どこぞでギンギンに鍛錬していることが予想できる。全く皆相変わらずで恐れ入る。
かく言う私こと立花仙蔵も、普段ならばこの空き時間を利用して勉学に励んだり、はたまた焙烙火矢の手入れをしたり、もしくは作法委員の活動に取り組んでいるはずだ。はずだ、と言うのは現在の私がそのどれにも該当することなく、珍しく自室でぼんやりとしているからに他ならない。

さて前置きが随分と長くなってしまったが、ここからが本題だ。
なぜ日頃から一部の隙もない燃える戦国作法とまで呼ばれる私が、こうしてぼんやりと時間を浪費しているのか。


「立花先輩、少々お時間よろしいですか」


…と、少しばかり回想に浸ろうかとしていた矢先、締め切っている障子の向こうから声がかけられた。誰かと考えるまでもない。この声と映し出された影は委員会の後輩である笹山兵太夫だ。もう一つその隣にある影は――恐らくだが黒門伝七だろうか?


「入れ」


委員会で関係があるとは言え、一年生である二人が態々この六年長屋を訪ねてくるのは珍しい。何事かと思いつつ文机に突いていた肘を下ろし、中腰になって体を障子に向ける。
失礼します。変声期を迎える前の軽やかな声が二つ聞こえ、それからするりと戸が開く。その向こうにいたのは予想通りの二人組みで、漏れ入る光に目を細めつつ私は入室を促した。


「あの、すみません。折角のお休みに」

「構わん。どうせ暇をしていたところだしな」


おずおずと入ってきた伝七が言うが、何やら申し訳なさげに兵太夫の影に隠れているようだ。普段の自信に満ち溢れた姿から考えると珍しいようにも思えるが。


「それよりどうした。態々ここまで来るなど、何か危急の用でもあったのか?」


首を傾げて問えば、やっと畳に腰を落ち着けた伝七が分かりやすく肩を跳ねさせる。忍たるもの相手に動揺を見取られてどうする――そんな小言がつい口を突きそうになったが、話も進むまいと察して寸でのところで飲み込んだ。
その様子をせっついているとでも思ったのか、伝七がいきなりオロオロとし始める。これでは埒が明かないと今度は兵太夫に目を向ければ、こちらはこちらで何やらニヤニヤと笑っているようで。


「どうした、話してくれなければ何も分からないだろう」

「そうだよ伝七。先輩に時間取らせるのは悪いって態々休みの時間に尋ねたのに、これじゃ意味ないだろぉ?」

「う、は、はい…」


兵太夫の語尾の延ばし具合に何やら黒いものを感じるが、まあそれは彼の生来のものだと思いたい…。何やら作法委員での影響を疑う声も大きいようだが、断じて私がそのような指導をしているわけではないことをここに記しておく。

さて暫くもじもじとしていた伝七は、ついに意を決したのか小さく口を開き始めた。まとまらない話から察するに、どうやら先日行われた女装の授業がうまくいかなかったらしい。それで私にその教えを請いに来たというところか。


「せ、先輩のご迷惑でなければ…」

「別に迷惑などではないから、そんなに恥ずかしがらずに言えばいいものを」

「ちょっと先輩、恥ずかしがらないなんてそれは無理だと思いますよー?」


小さくなるばかりの伝七と話しているはずなのだが、何故か付き添いの兵太夫が楽しそうにしている。その言葉に伝七はきっと眦を吊り上げるが、見下ろす私と視線が絡むと耳まで赤くして黙り込んだ。


「? どういう意味だ」

「それがぁ、伝七の女装ったらひっどいんですよぉ。あれだけ普段優秀だなんだ言ってる癖に、化粧道具の使い方が全く分からなくて」

「っ、へ、兵太夫っ!」


最早ニヤニヤからゲラゲラ笑いに転じた兵太夫に、ついに伝七が食って掛かる。聞けば白粉をこれでもかと塗りたくり、頬や目の周りを鮮やかに染めまくった挙句に紅を唇より一回り大きくつけてしまったのだとか。成程、普段化粧に馴染みがないような者が大した知識もなく行えば、そうなるのが関の山というやつだろうが。


「言うがな兵太夫、お前の女装だって正直酷いものがあったぞ」

「いいんですよぉ、僕はまだ化粧に慣れてないし。それにお手本が伝子さんだったんじゃあねえ?」

「化粧に慣れてないのは僕だって一緒だ!」

「あれえ、アホのは組と一緒は嫌なんじゃなかったっけ?」

「うぐ…っ」


普段から馬が合ってるんだか何なんだかの二人組みは、今日も喧嘩腰の掛け合いに余念がない。やや兵太夫が優勢なのもいつものことかとは思うが、あまり聞いていて楽しいものでないのも確かなので。


「いい加減にしろお前たち。よかろう、この私が直々に手ほどきをしてやる」

「ほ、ほんとですか!」

「ああ、誰もが振り返る美女に仕立ててやるぞ。勿論兵太夫、お前もな」

「えー!?何で僕まで!」


頬を紅潮させて喜ぶ伝七に対し、兵太夫は態度を一変させてぶうたれてみせる。よしよし、そんな顔をしたところで私の愛の鞭から逃げ出すことは不可能と知れよ。


「さて、ではまず二人とも顔をよく洗ってくるがいい」



――半刻後。
一通りの化粧と着付けを施した私は、後輩と共に学園の門前に立っていた。勿論、女の装いに身を包んで。


「はい、サイン確認しました〜。気をつけて行ってきてね〜」

「ありがとうございます。夕飯までには戻りますので」


無遠慮に目を輝かせて覗き込んでくる小松田さんを軽くいなして身を翻す。何だかあの人からは得も言われぬ威圧感を感じるような…いや、気のせいだと思うのだが。
笠を被り杖を突く私の後ろには、緊張気味の伝七と不機嫌面の兵太夫が続いている。こうして後輩を連れて外に出るのも久しぶりだ。今日がいい天気で良かった。


「ほら兵太夫、しゃんとしないか。良家の子女がそんなガニマタで歩くと思ってるのか」

「だってこの服動きづらいんですもん…帯も何だか苦しいし」

「それが女装の第一歩というものだ。耐え忍んでこその忍者だぞ、何事も修行と思え」

「へーい…」


小言を添えつつ道中を行けばすれ違う行商人や旅人がもれなく振り返った。目が合えばちらりと会釈を返すが、本日の設定は武家の娘なのだ。そう簡単に手の届く存在と思うなよという牽制も兼ね、しゃんと背筋を伸ばして歩みを進める。


「つってもお武家のお嬢さんが供も連れずに歩いてるって時点で不自然ですよ〜」

「文句を垂れるな。似合いの男がいなかったのだから仕方なかろうが」

「善法寺先輩なら保健室にいらっしゃいましたけど…」

「言うな伝七。伊作を連れていったところで悲劇的な展開しか思い浮かばない」


きっぱりと言い捨てれば後輩は遠い目をして同意した。それでいい、保健委員に関わったところでろくなことがあった試しがないのだから。


「で?これから僕らどこに行く予定なんですか〜?」

「…“僕”ではなかろう兵太夫。そうだな、とりあえず町店を覗くのもいいが…」


と、顎に手を当てたところでふと思い出される景色があった。大通りの端、ほとんど町の出口に設けられた小さな見世。茣蓙の上に広げられた器には色とりどりの菓子が並んでいた。春の花畑のような色を見せるその場に足を留めたのは何も私だけではない。寧ろ若い娘の人だかりがあったというのに――そこでかけられた声が、未だに忘れられないのだ。
そう、あれはつい先日学園町先生のお遣いに出た先のことだったはずだ。


「…まだそう日は経っていないから、まだいるやもしれないな」

「? 何か仰いましたか?」


思案に耽りつつ一人ごちれば、右隣にいた伝七が耳ざとくその呟きを拾い上げる。内容までは聞き取れなかったようだが、何にしろ敏感にものを見聞きするのはいいことだ。


「いや、大事無い。それより二人とも、少し歩くが菓子を買って欲しくはないか」

「! おかし!!」


その言葉にいち早く反応を見せたのは先ほどまでぶすくれていたはずの兵太夫だったが、遅ればせながら伝七もぱっと表情を明るくしたのが分かった。いくら気取ってみたとしてもまだまだ子どもだと笑いが漏れる。
途端機嫌をよくしたお子様たちに先を譲りながら、私も耳に残る心地いい声を思い出していた。



ざわめく大通りで何人もの商人や無粋な男共に声をかけられつつ、すたすたと足早に目的地を目指す。中には茶を奢るとか簪を買おうなどと言ってくる輩もいたが、その辺は慣れているためにかわすことなどお手の物だ。ただ捕まる度に伝七が固まってしまい、一方で兵太夫が変に自信をつけていく様を見ているのはとても辛かったが。

暫し歩くと人波も途切れがちになり、その更に先に私の求める声の持ち主はいた。もしや商売場所を変えてしまったのではと不安にもなったが、どうやらまだこの地に留まってくれていたらしい。知らず安堵の息を漏らすが、それがどんな感情に所以しているかなど知る由もなかった。


「あっ、あそこですか姉様!」


私の視線を辿ってか目的地に到着したことを知った兵太夫が声を上げる。ここに到着するまで随分揉まれたためにすっかり女装が様になっていたが、いざという時に素に戻る辺りまだまだということだろう。何でもいいから大股で走り出すのはやめさせねば。
溜息を吐きつつその後を追う。はしゃぐ兵太夫を見て「これだからは組は」などとのたまっていた伝七も、近づく芳しい匂いに興奮を抑えきれないようだ。今すぐに走り出したいのだろう心中が手にとって見える。

見世に近づくと相変わらずの様相が広がっていた。草臥れた色合いの茣蓙の上には漆塗りの美しい重箱。そこに詰められた色とりどりの菓子たちに一年坊主どもはこれでもかと目を輝かせている。
そうして子犬のような二人を見守る人物こそ、先日私に声をかけてきた張本人であって。


「ははは、お嬢ちゃん方は甘いのがお好きなようで」

「うん、兵子お菓子だーいすき!」


にこやかに笑う店主の前で兵太夫は精一杯の――否、これまでで最上級の女児っぷりを発揮している。輝く笑顔は紛れもなく本物だろうが、これは中々見込みがあるかもしれないぞ。
後輩の未来に期待を抱きつつ私も二人の背後に近寄る。すると翳った視界に気付いてか店主がすっと顔を上げた。


「…こんにちは」


緊張気味に挨拶をする。少しだけ声が強張っていたかもしれないな。
すると店主は二、三度目を瞬かせて、それから何か合点が言ったように「ああ!」と声を挙げた。


「もしや貴女は先日の?」

「はい、この間は美味しい甘味をありがとうございました」

「いやいや何の。こんなに美しいお嬢さんに食べてもらえるなら、屑菓子とは言え本望でしょうや」


目を細めて微笑う、それがとても様になっている。服装はまるきり男のものだが、それにしては声は高いし体も小さい。こちらと違って化粧っ気のない素顔は中性的とも童顔とも取れるが、それが却ってその人物の存在感を曖昧なものにしている気がした。
ふむ、この人物は中々のやり手と見た。この半端な感じが他人に性別や年齢を問いづらくするし、一方でまた魅力的にも仕立てるようだ。


「今日は妹さんとご一緒で?」

「そうなんですぅ!姉様がおいしいお菓子を買ってきて下さったものだから、私たちもぜひ行ってみたいってお願いしたの!ねっ、おデンちゃん!」

「お、おデンちゃん!?」

「へえ、仲がよろしくて何よりだ」


言って店主は兵太夫の頭を数度撫でた。ついでとばかりに横で素っ頓狂な声を挙げた伝七にも目を向ければ、気恥ずかしいのかはたまた気まずいのか真っ赤になって俯いている。


「さて、今日は何をお求めかな」

「ううん、色々あって迷っちゃう」

「そうねえ、どれも綺麗ですこと。おデンはどれが好き?」

「…え、えっと」


兵太夫があれこれと目を遣っている隙にそっと伝七に声をかける。あまりと言ってはあんまりな名づけに肩を落としていたようだが、おずおずと顔を上げると細い指先で五色の飴を指差した。


「おっ、さすが良家のお嬢様だ。お目が高い」


すると店主は言い、区切られた重箱に詰まった一角から数粒の飴玉を取り出した。とろりとした絹のような光沢を見せるその粒にはとりどりの色が使われており、短い円柱の中心には美しい花が描かれている。


「可愛いお嬢さんにはおまけをしよう」

「あーっ、ずるい!」


千代紙で器用に折られた包みに飴を多めに転がす店主に、声を挙げたのは兵太夫である。間髪入れずに自分が所望する菓子を注文するや、「私の方が可愛い」と言わんばかりにおねだりをしてみせた。


「困ったな、私は可愛い子のお願いには滅法弱いのだが」

「やーん!素敵なお菓子屋さん、兵子にもサービスしてっ!」


他愛無いやりとりの中、何だかんだで兵太夫は一人で数種類の菓子を手に入れていた。一種類の数こそ少ないが、袋に入ったそれらはまるでそのために誂えられたかのようだ。恐らく兵太夫が目移りしていたことに気付いていたのだろう。全く商売人とは抜け目のない生き物である。


「さて、お姉さんはいかがされますか」


菓子袋を手にはしゃぐ二人を見て何となく和んでいたのだが、そこに声をかけられて少しだけ驚く。ああそうか、今の私は“女”だからな。こういうものに目がないと思われても仕方ないだろう。(実際先日も飴を貰っているわけだし)


「そうですね…」


しゃがんだ姿勢のまま暫しの思案。ふむ、中々どうしてどれも美味そうな見目である。しかし私は然程甘いものを食す性質ではないのだが。


「…では、先日と同じものを頂けますか」


仕方なしにとは言わないが、特に選ぶこともできなさそうなので小さく一言そう言った。こうしておけばそれとなく体面は保たれるだろう。
が、視線を上げた先で店主はぱちぱちと目を瞬かせていて。


「…あの?」

「あ、いやこれは申し訳ない。先日のでよろしいので?」

「はい」


にこり。当たり障りのないよう笑えば店主も同じように笑って返す。私のとは違って他意のなさそうな笑みだ。どことなく人の良さがにじみ出るような。


「じゃあ、これで」


そうして渡された飴はわざとらしいほど真っ赤に染まっていた。美しい夕日とも、喉をかき切った時に溢れる血の色とも見える。だがその毒々しい赤を中和するかのように、伸びた棒に止まった千代紙の蝶。


「…これは」

「サービスですよ」


山吹と紺色の織り交ざる千代紙が花を添え、赤い棒飴は随分と可愛らしいものになっていた。何だ、先日見た時は随分と攻撃的ななりをしていると思ったものだというのに。


「こないだは随分と怪訝なお顔をなされたようだからねぇ、折角貰って頂けるんなら、笑ってもらった方がそいつも喜ぶと思うんでね」

「…そんな顔をしておりましたか」

「はは、手前の気のせいかもしれませんが」


笑って言うが私の“表情”を見取るとはやはり食えない御仁のようだ。忍者の本分は忍ぶことにあり、女の格好をしている間は決して笑みを絶やさぬようにと心がけていたはずなのだが。


「…ありがとう、頂戴します」

「毎度」


手渡された際に触れた指先は少しだけ冷たいような気がした。働く人間の荒れきった手だが、個人的には好ましいものと思える。


「…もし、サービスというなら」

「? はい?」

「蝶のついでにそちら様のお名前を教えては頂けませぬか」


が、そこで口を突いたのは思いも寄らない台詞だった。意識したつもりもなく、私自身おやと思う前に飛び出していたのだから驚きだ。
すると店主はまた数度瞬きをしてからしたり顔で微笑んだ。本当に笑うことが好きな方だ。


「知らざあ言って聞かせやしょう」


生まれは東の国、遠方より来たりて萬屋なる数多の品を取り扱う見世を営んでいる。年は忘れたが心持ちはとうに隠居爺のようにあるのだとか。


「姓は苗字、名は名前と申します」

「…名前殿?」

「ははは、美女に呼ばれると我が名も随分と綺羅綺羅しく聞こえるものだ」


笑い顔は幼く、また性別すらも判然としない。ただ惹かれるものがあるのは確かで、柔らかな声はいつまでも聞いていたくなるような。


「以後お見知りおきを、美しいお嬢さん」

「ふふ、お上手ですこと」


軽やかに揺れる髪が飴玉に止まった胡蝶のようだ。菓子たちに彩られた野原に遊ぶ、自由で気ままな姿が用意に想像される。
また来たいとは思うものの、旅の行商ではいつ会えることになるやら。


「…何これ、僕ら逢引きに利用されたってわけ?」

「あ、ああああ逢引き…!?」

「どもりすぎよおデンちゃん」


それもまた風に誘われる蝶ばかりが知るというのだが、はてさて。



死人に梔子
---------------
おデンちゃんすまんかった…デン子ちゃんじゃ山田先生と被っちゃうんだもの

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -