窓の外から甘味をともなった儚げな匂いが漂ってきた。秋の到来を感じる。 「―――」 名前を呼ばれた。振り返った先に、笑顔で手招きする人がいる。 そうだ、今日は一緒に出掛ける約束をしていた。駅前に新しく出来たカフェ、素敵なお店だったからきっと気に入るよ。小さいけどお洒落で、落ち着いてて、可愛い雑貨も置いてるの。マスターも格好良くてね。……ねぇ、この服ヘンじゃない? 「兄さん」 くるりと身体を回した途端、その人は消えてしまった。変わりに見知らぬ天井が見えて、潮の匂いがする。 「――兄さん?」 つい先ほどまで目の前にいたのに一体どこへ行ってしまったのか。甘い香りの中に居たはずなのにこの塩辛い風はなんだ。 窓の外がほんのりと明るい。のっぺりと広がる白い地面は砂浜だ。そこに打ち寄せる波を見て、じわじわと夢心地から抜け出していく。 ギルモアさんの、家だ 自分は夢を見ていたのだ。泣きたくなるほど懐かしい夢を。 「あれ……」 だというのに、甘い匂いも『兄さん』と呼んだ人の笑顔も、波を眺めているうちに思い出せなくなってしまった。 それは果たして過去の記憶の残留か、それとも一夜の夢に過ぎないのか、マオには検討がつかない。 しかし最早見慣れてしまった空とぶ揺りかごの中で、赤ん坊は興味深そうにおしゃぶりを上下させた。 『以前君が見た夢に出てきたのは女性だった。覚えているかい?』 「は、い…」 『たぶん君のお母さんじゃないかな。そして次は、お兄さんだ』 「でも、ただの夢かも…」 歩き回るのに不自由しない程度には明るいが、新聞を読むにはまだ暗すぎる。窓から流れ込む潮風で、リビングは肌寒いくらいだ。 その風に乗ってくるりと電球近くを旋回した001は、珍しくもニコリと微笑んだように見えた。 『そうとも言い切れないさ』 なにか根拠があるのだろうか。 籠が目の前に降りてきて、縁に手を掛けて膝立ちになる001の姿が見て取れた。 『君は今まで、人格はあっても経験や経験からくる判断力といったものが欠けていた。だからなにをするにも“わからない”が付きまとう。自分のことなのにね。これは相当なストレスだ』 そんな状態で記憶が戻ったところで受け止める余裕などありはしなかった。 『だから無意識に、自己の崩壊を防ぐため、わざと記憶を抑え込んでいた……』 更にマオは記憶を取り戻すことを怖がっていたため、二重に枷がかかっていたと言える。そのことを001は指摘する。 だが記憶が戻ることに対する恐怖はもはやほとんどない。 『となると、君の中に過去の自分を受け止められるだけの器が出来上がった、だからこそ思い出の一部が夢に現れた……そう考えられないだろうか』 「……器」 半月。 マオがギルモア邸で過ごした時間だ。日数にして10とちょっと。 きっとその器は優しさで出来ているのだ。9人のサイボーグと1人の科学者の思いやりが素なのだ。それがいま、確かに自分の中にある。マオは唐突にそれを実感した。 『これはあくまで臆測に過ぎない。夢だと言い切らない代わりに夢じゃないとも言い切れない』 「………」 『でも、いま君の心がとても安定しているのは確かだ。今なら君の心に触れて、真偽を確かめることが出来るかも知れない』 試してみるかい?という言葉に迷うことなく頷く。 可能性のあるものは決して諦めない姿勢を、彼らから学んだ。 ← 戻る → |