羊を500まで数えた所で、余計に目が冴えるだけだということに気付いてやめた。 そもそも羊なんて日常的に見掛ける動物ではない。無意識に「羊はどんな動物であったか」と想像力を働かせるため、脳が動いて眠れなくなるのである。 マオは天井を見上げてため息をついた。目は暗闇に慣れてしまい、木目まではっきりと見て取れる。 ――眠れない。 ギルモア邸に来てから六度目の夜だった。その間まったく眠れなかったというわけではない。だが眠りが浅く、疲れを残したまま朝を迎えてしまう日々が続いていた。 昼間にぼんやりしていると、003が心配そうに自分を見ていることがある。これ以上迷惑はかけられない。眠らなくてはと思うのに。 「……はぁ…」 喉の渇きを覚えて起き上がる。 ひた、と素足が床に触れる。すこし冷えていた。与えられたスリッパはぱたぱたと音がしてしまうので、こうして夜に部屋を出る時には使わない。 月明かりでぼんやり照らされた廊下を進み、階段を降りる。キッチンに入り、食器棚に近付いたところで、マオはビクリと肩を揺らした。 ソファーに誰か座っている。 「…すまない、驚かせたか」 銀の髪が月明かりに照らされている。004だった。 部屋の明かりも点けずに、何をするでもなく。ただぼんやりとソファーに座っていた004に、マオは恐る恐ると問いかけた。 「ど、うしたんですか。こんな時間に」 「眠れなくてな」 それが用意された言い訳とは知らず、マオは「そう、ですか…」と相槌を打つ。それきり、会話が途切れた。 マオは、夜中にふらふらと出てきたところに004と会ってしまい、素行が悪いところを見られてしまったような、バツが悪い気分になってしまった。 目も合わせられずに意味もなく手をもじもじさせていると、004が唐突に口を開いた。 「眠れないときは、」 「は、い…」 「ホットミルクがいいらしい。ちょっと話に付き合っていかないか」 点けた明かりの眩しさにやっと目が慣れた頃、004はゆったりとした動きで小鍋に入れたミルクを火にかけていた。キッチンに立つ彼の姿を初めてみたのでなんだか斬新だ。 テーブルに着席したまま、ときたま鍋の中をかき混ぜる004の後姿をぼんやりと眺めた。 「――俺もたまに、眠れなかったり、悪夢を見て夜中に飛び起きたりする」 背中を向けたまま、彼は喋り続ける。波の音をBMGに、マオは大人しく話に耳を傾けていた。 「起きちまったもんはしょうがないから、ぼんやり海を眺めたり、どうにかして朝まで暇を潰すんだが……たまに仲間の誰かが気付いて、話をしたり、こうして飲み物を作ってくれたりする」 一番最近にそれがあったときは、008だったか。 コーヒーをくれと言ったら「余計眠れなくなるから駄目だ」と返されて、甘ったるいミルクを押し付けられた。 007だった場合は酒になる。飲み過ぎて朝までその場で眠りこけているのを003に発見され、怒られるというパターンが多い。 「あいつらは良い奴だ。俺は何度も大事な人を失った時の夢を見るが、あいつらを失うのはそれと同じくらい怖い」 004は、ミルクが入ったマグカップをマオの前に置いた。 「お前は、なにが怖い」 彼のごく薄い色素の瞳が、マオを見ていた。 「私は……」 彼らは優しい。 マオがみた彼らの機械の体は、兵器などではなく、弱い自分やお互いを守ってくれる武器だった。困惑したが、もう恐ろしくはない。 優しく触れてくれる彼らに応えたかった。“自分”というものを取り戻して今一度彼らと向き合いたかった。 だが同時に怖かった。 記憶を取り戻せば、彼らに対して抱いている感情も変わってしまいそうで。今の自分が消えそうで。 「思い出したいと思うのに……もし、もし過去の私が、皆さんにとって不利になる立場の人間だったり、そういう感情を持っている人間だったら、って考えてしまって」 もし彼らの敵だったら。 もし兵器を嫌う過去があったら。 独断と偏見の記憶があるのなら。 優しい彼らはそれでもきっと自分を許してくれるのだ。ただ哀しそうに笑って許してくれるのだ。そんな彼らを嫌ってしまうのなら。傷つけてしまうのなら。 それならいっそ、もう思い出さないほうがいい。 そんなことを、マオは思うのだった。 ← 戻る → |