短編
夢の国A
 ようこそ、夢の国へ。どうしたものか、今回の訪問者はやけに興奮しているようだ。

 え? 話を聞けって? とは言っても私は君の話の結末を知っているしねぇ……。
 あぁ、やめてくれ。服から手を放して。これはとある約束をしたお嬢さんが褒めてくれたお気に入りの格好なんだから。

 まったく、仕方のない御仁だ。聞いてあげるよ、話してご覧。君の悲劇的な喜劇の結末を。





 男は全てを持っていた。金も名誉も優れた才をも。彼には麗しくも怜悧な妻がいた。息子が一人と娘が一人。整った面立ちの子供たちはまだ幼いながらに気品を感じさせる佇まいで、成人したら彼の会社に大きく貢献するだろうと思わせる何かがあった。

 不足など何一つない人生。
 それこそが彼にとっては不足そのものだった。

 退屈だったのだ。完璧がゆえに彼の人生は波紋をたてることなく静まり返っていた。刺激的で、魅惑的で、スリリングなものを彼の心は常に求めていた。

 そんな折である、彼女が現れたのは。

 夜の蝶のように艶やかで、瑞々しい。煽情的な風貌の彼女は自らを彼の昔の遊び相手の相手の一人だと名乗った。自分にはあなたとの間の子供がいるとパッとしない雰囲気の少年の手を引いた彼女に彼は興味を抱いた。

 彼には彼女の言う昔の遊び相手という存在がいたことはなかった。仕事に専念していた彼には不貞を働く考えが思いつく頭がなかったのである。見え透いた嘘をさも賢しげに唱える彼女を彼は愛らしく思った。しかしそれは決して対等なものなどではなく、例えるなら愛玩動物をかわいがる感覚に似ていた。彼はこうしてペットを手に入れた。

 ペットは彼に金と宝石をせびった。彼は頭の悪い言い訳を重ねながら強欲に贅を貪ろうとするペットをかわいがった。理論の通っていない話を無理やり押し通そうとする姿はなんともとぼけていて愛くるしく思えた。

 ペットは物を買い与えるたびにお礼だと言って彼の体を求めた。存外悪くない具合に、彼はこのペットは芸もできるのだと感心した。彼が褒めるとペットは図に乗り、賢し気な顔をしては彼の上で腰を振った。

 火照った体を持て余しながらペットは彼の耳に口を寄せ、愛しているわと囁く。

「あなたは? あなたも、愛しているって言って」

 彼の胸板で手を遊ばせるペットの言葉に、彼は暫し沈黙した。

 ――私はこれを愛しているのだろうか?

「愛して……?」
「愛しているでしょ? 言って、愛していると」

 ねっとりと粘着質な声が彼の疑問に答える。
 その時、無機質だった彼の心に何物かが生まれた。

「そうか、私はこれを愛していたのか」

 呟いた瞬間、ペットは一人の女になり、彼の心には愛と呼ばれる何かが横たわった。

 彼は、自身の求めていたもの――『刺激的で、魅惑的で、スリリングなもの』に現状一番近い彼女との関係を愛と呼ぶことにしたのだ。

 こうして彼女は愛人となった。

 その実、本当に愛している物は不倫という関係に過ぎなかったのだが、盲目となった彼がその事実に気づくことは優れた才をもってしてもなかった。



「お話があります」

 聡明な妻が彼の浮気に気づくのは時間の問題であった。

 妻に呼ばれ赴いた部屋には愛人と厳つい顔をした弁護士だと名乗る男。舞台はすでに妻の物だった。

 弁護士を携えた妻の話は流れるように進み、場面はいつしか彼女との半永久的な別れを確約するところまできていた。

 強い香水を身に纏った愛人は濃い化粧の施された目を静かに伏せ、書類に名前を記入した。この状況に恐れを感じているのか、その手はわずかに震えてい、文字も無様に揺れていた。

 手放せるというのか。お前は私を捨てて離れることができると? 私に愛を教えておきながらそんな紙一枚でこの関係を閉じると、そう言うのか。

 この心地よいスリルが失われることに男は恐怖を感じていた。もしかすると彼は初めて何かが失われるという喪失感に恐怖したのかもしれない。それほどに今までの彼の人生は満ち足りていて退屈なものだったのだ。

「さ、あなたも」

 手渡された万年筆は愛人の手汗でほんのり湿っていた。覚悟もすでに、決まっていた。自身の汗で万年筆を濡らし血管が浮き上がるほどに強く握りこむと彼は徐に立ち上がり愛人の元へ寄った。

 そして彼女の喉元に万年筆を埋め込んだ。勢いよく引き抜くと壊れた水道管のように血が噴き出す。悲鳴も何も彼の耳には届かない。彼は血塗れた絨毯の中心で、万年筆を自身の心臓に突き刺した。

 胸に万年筆が刺さった状態で彼は愛人によろよろと駆け寄り、抱きしめた。彼女はすでに事切れていた。彼はそれを見届けると満足したかのようにかすかにほほ笑み、自らの万年筆も引き抜いた。

 絨毯には、二人の死体が静かに横たわっていた。






 おや、語り終えたかい? いや、聞いていたよ。ほら、だから落ち着いてくれ。
 にしても君は本当に趣味が悪いというかなんというか……。

 それで君はその愛人の骸とともにこの国で眠るんだね? いやはや、大人しく二人で地獄に落ちたら彼女と話すこともできるだろうに。

 彼女でなく彼女の骸を選ぶあたり本当に歪んでるね。彼女を引き留めて何を手に入れようというんだい? すまない、これを言うのは野暮というものだね。

 はい、死体は生き物に該当しないからこのまま門を通ってくれて構わないよ。それでは訪問者、よい死後を。



 まったく、救われないものだね。彼はあれを抱きしめて過ごしたところでほしいものはもう戻ってこないというのに。




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