短編
夢の国
 おや、君は新しい訪問者かい? 覚えがないとはおかしなお方だ。身に覚えがあるはずだよ。

 ここは夢の国。死者が夢を抱いて眠る国さ。望む者しかここにはやってこない。ゆっくり思いを巡らせて……そうそう。思い出してきたかい? 手に持っている物は大切な物?

 おや、分からない? ふぅむ、どうやらまだのようだね。仕方がない。君が思い出すまで私が少し物語をお話ししよう。ん? 私の名前? そうだな、私のことは門番と呼んでくれ。

 それでは始めようか。君が君自身を思い出すまで。


 これはある男の話だ。とはいえ、それほど昔の話ではない。ここ最近の話だ。

 男は画家だった。多くと同じように彼は無名だった。今後画家として名前を残すことも、恐らくないだろう。絵で生計を立てるには余りにも足りないものが多く、彼の生活は苦しいものだった。想像がつかない? 面白いことを言う。そうだな、言うなれば干しブドウと干からびたパンの耳を水で喉に流し込むような食事しかできない生活ってことさ。そう苦々しそうな顔をしなさんな。それでも男は幸せだったんだ。

 世間に評価されなくとも彼は彼の作品が好きだった。愛していたと言ってもいいだろう。そうでなくてはそんな生活に満足することなど到底できなかっただろうからね。彼は日々、隙間風が激しい小屋で絵を描いていた。夏はじめじめとむせ返るように暑く、冬は底冷えが激しく手足が凍り付くような環境だったが、彼は日々愛すべき絵を描いた。

 狂ってるだって? 恋に生きる男というのは軒並みそんなものさ。彼にとっては絵が恋人なんだ。君だって思い当たる節があるんじゃないのかい? ない? そりゃ残念。

 そんな彼には妹がいた。来る日も来る日も彼の小屋を訪ねては絵を描くのをやめるように勧める妹だ。彼は自身の寝食に関しては無関心だったが絵に関しては大層なこだわりがあった。君も先ほど言ってくれたがね、彼ののめりこみようは傍から見たら狂ってるようにしか見えなかったんだよ。君もそう感じたのなら彼の妹の気持ちがよく分かるんじゃないかな。ろくな食事もとらずに絵にのめりこむ兄。当然、ガリガリにやせ衰えていく。骨ばり皮の浮いた腕で絵を描き続ける姿は、死の淵へ歩を進める幽鬼のようにさえ見えた。

 落ち窪んだ目を油臭いキャンパスに向ける彼に毎日根気強く話しかける妹の存在は、彼にとってデートに立ち入ってくる無粋な知り合いのような存在だったが、第三者から見れば兄を心配し甲斐甲斐しく世話をする心優しい女性に他ならなかった。

 彼の心を妹は知らなかった。尤も彼自身も彼女のことを理解していなかったのだがね。お互いに自身の考えを押し付けあう関係。それが彼と妹の全てだった。

 ある日、妹は彼が寝入っている隙に彼の絵を全て燃やした。なぁ君、君ならどうする?

 寝ている間に自分の絵が……否、恋人が殺されてしまったんだ。私は、今の君の考えが知りたいな。

 ――ほう? 実に興味深いね! あまり恋人に執着がない性質なのかな。いやはや、君は大層ねじくれた人物のようだね。これだからここに来る人は面白い。私が毎度無駄口を叩いてしまうのも無理はないとなぜ彼らは理解しないのか。とまぁ、それは置いておこう。

 君もそろそろ自分を思い出したころじゃないか? おや、まだか。では話に戻るとしよう。どこまで話したかな……。そうそう、彼の妹が絵を燃やしたところまでだったね。

 君はあぁ答えてくれたがね、彼には絵を燃やされたことは耐えがたいことだった。彼の怒りはどこまでも深く、底知れなかった。それこそ、君の言ったことでは生ぬるいと感じるほどにね。手負いの獣が我が子を守ろうとするかのごとく彼はすでに下火になっている焚火に飛び入り、絵を救い出した。手は火で焼きただれ、服に火がつき彼自身が燃えても気にも留めなかった。

 油絵の描かれていたキャンパスは火が回り、真っ黒に染まっていた。絵は消え失せていた。彼の恋人は死んでしまった。

 失われたのだ、永遠に! その喪失感たるや!

 最愛の、この世で唯一の恋人を失った男は息をするかのように自然な所作で妹の首を締め上げた。彼女の目が、手が彼に救いを訴えても彼の力は緩むことはなく、それどころか彼の目は亡くなった恋人に注がれていた。かくして妹は死んだが、彼の注意はそこにはなかった。

 彼は服に付いた火を消すこともなく、そのまま絵を抱きしめて死んだ。しがない画家は、世に名前を残すことはなかったが、一人の狂人の名前は瞬く間に世に渡った。

 皮肉なもんだね、君は画家としてしか生きなかったのに君が最大に評価された点は君が狂っていた点だけだ!

 おや、その表情は思い出したようだね! 君は絵に生き絵に死んだ! そうして君は夢の国に流れてきたんだ! 君はここで絵を抱いて眠るんだろう? そう、大事なものはしっかりと胸に抱いて。



 それでは改めて。私は夢の国の門番。君を寝床に案内する者。ようこそいらっしゃい、訪問者よ。




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