短編
溺れるイルカA
 保健室らしからぬ甘い香りがした。この部屋の主人がまたお菓子を溜め込んでいるのだろう。保険医は極度の甘党だった。

 背負っていた久岡を簡易ベッドの上に降ろす。

「とうちゃーく」
「菅ありがとー」
「どいたまー」

 久岡が貧血を起こすのは常あることだった。彼女は病弱だ。目の下のクマを見るに、テスト勉強を夜遅くまでしていたことが原因だろう。もともと丈夫な方ではないのに無茶をすれば倒れるのは必至だった。

「久岡ちゃん、無理もいいけどほどほどにねー?」

 俺の言葉に彼女は強張っていた表情を和らげる。飛行機が通り過ぎてから緊張していた彼女の空気が弛緩したことに安心する。

「ま、何事も適当な俺なんかに言われたくはないだろうけどさ」

 安心したことで気が緩んでしまったらしい。俺らしくもない余計な一言を付け加えてしまう。彼女は俺の卑屈な一言に反応することなく、切れ長の目で俺を見やる。窓から入った風が頬を撫でた。お菓子の匂いか彼女の匂いか判別のつかない甘い香りに、腰が疼く。

「菅は、別に適当にしてる訳じゃないと思うけど」

 一拍おいて落とした言葉は、先ほどの返事なのだろう。彼女の澄んだ声が俺の心に響いて痛む。

「いやぁ、今だって俺、サボる時間長くしたいからわざわざ氷嚢取りに保健室行ってから久岡ちゃん送ったんだよ?」
「うん、分かってる」

 わざと意地悪そうな顔を作って笑う彼女に向かって、うはー、バレてた、とおどけて見せるが内心気が気でない。意図的に見せないようにしていた面を暴かれるというのはなんと恐ろしいことか。足元が崩れ落ちるような不安定な浮遊感を俺は感じていた。

 久岡は俺の頭に手を乗せると、優しく包み込むように撫でる。
「知ってるよ。大丈夫、嫌ってないから」

 一転、落ち着いた声のトーンで話す彼女に、我が身を振り返る。

 愚直なまでにまっすぐな物言いをするゆえに周りから浮いている彼女は、どちらかといえば人付き合いの下手な方である。そんな彼女が俺を労わるなんて、どれほどひどい顔をしているのだろう、俺は。

 自嘲めいた笑いがこぼれた。これじゃあ今まで彼女の前でかっこついてたのが全部パーだ。

「私ね、イルカが好きなの」

 唐突な言葉を訝しく思うが、口下手な彼女にはままあることなのでそのまま話を促す。

「ゆったりした動きなのにどこまでも伸びて泳ぐ、イルカが好きなの」
「…実は息切らしながら必死に泳いでるかもよ?余裕なんてなくて、ゆったりした自分に焦ってるかもしれない」

 無神経な言葉を口にするが、彼女は俺の目を静かに見返した。苛立ちの感情も何もない、ただ慈しみだけがこもった瞳に、感情の輪郭が揺れる。

「それでも。イルカがどれだけ必死だったとしても、その泳ぎの美しさに変わりはないんじゃない?」

 菅は、イルカに似てるね。

 どうでもいいことのようにおざなりに付け足された言葉に、沈黙を返す。深読みしては痛い目を見ると分かっているのに、やめられない。久岡はイルカが好きだから、イルカに似た俺も好きなのではないかと。

「なんだそれ。それじゃあ俺に恋してるみたいだ」

 苦笑気味に返す言葉を、否定して欲しかった。いや違う。否定はして欲しくない。ただ調子に乗った自分を戒めてほしい一心だった。

「うん、そうだね。私は菅が好きだよ」

 よもや肯定されるとは思ってもみなかったがゆえに。

 愚直な彼女が好きだった。体が弱いのに無茶をしてばかりな、頑張り屋の彼女が好きだった。飄々とかわしてばかりな俺とは違う彼女が好きだった。一歩一歩を着実に歩む彼女が好きだった。好きだと思うたびに彼女が遠ざかっていく気がした。

 何かのついでという形でしか彼女に近づけない自分が嫌だった。

 器用貧乏な俺は、大した努力なしに大抵のことはできた。懸命に力を入れて取り組めばなんだって出来ただろう。自分自身それを感じていたからこそ、本気で取り組むことを倦厭して格好ばかりを気にした。いつしか本気の出し方が分からなくなっていった。

 怖かった。

 頑張れない俺が頑張り屋な彼女を好きになってしまったのは恐怖でしかなかった。彼女と俺の距離は果てしなく遠かった。俺はいつも彼女を見上げてばかりいた。

「菅は多分、自分の檻の中でもがいていたんじゃない? でなければこんなに傷だらけにはならないでしょ」

 久岡は俺の頬を撫でた。頬には傷ひとつないのにもかかわらず、彼女には俺の傷が見えているようだった。不思議な話だ。俺はいつも彼女に救われる。俺が落ちた時、掬い上げてくれるのはいつも彼女だった。

「好きだ。久岡が、好きなんだ」
飛行機にかき消された俺の告白。臆病な俺はあれが聞こえなければ彼女と決別するつもりだった。聞こえるはずがないと知っていた。それでも期待してしまった俺は、やはりバカなのだろう。初めから聞こえる時にちゃんと言うべきだったんだ。遠い遠い先を歩む久岡に声を届けたいのならば。

「菅、私のイルカになってくれる?」

 情けない俺は彼女にまた、言わせてしまう。あぁ、それでも君が俺を求めてくれるなら。

「泳ぎを忘れたイルカでよければ」

 溺れるイルカは、空を舞うのだ。



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