短編
溺れるイルカ
 貧血を起こしたようだ。足がふらついてそう気づく。体の弱い私にとっては慣れた症状で、その時も別段焦ることなく、運動場の隅にある木陰に向かって歩く。水で冷やしたハンカチを額に当ててごろりと寝転ぶ。イルカのような雲を見つけた。雲の流れに合わせてゆっくりとイルカは空を泳ぐ。じぃ、と見つめているとイルカの形は次第に崩れた。

「海の中に潜ったのかな」

 イルカが消えたのを都合よく解釈する。ほんの一時でも心を慰めてくれたものがなくなったのにさみしさを覚える。ハンカチに含まれた水がすぅ、と顔の輪郭を撫でた。水がだいぶぬるくなってきている。また水道で濡らしてこなくては。そう思いフラフラしながら立ち上がる。首に冷たい感触が走った。

「ひゃ?!」

 冷たいとも痛いとも取れる感覚に首をすくめる。今のはなんだ。振り返ると、ジャージ姿のひょろりとした男、菅 大輝が氷嚢を持って立っていた。

「驚いた?」

 いたずら好きそうな彼の顔に泥を投げつけたいと思った。腹の立つことにこの得意げな表情をした彼はなかなかにいい顔をしているのだ。にしし、と笑う表情さえ様になっているので尚更腹が立つ。

「まぁまぁ。貧血を起こしている久岡ちゃんのために保健室行って氷嚢もらってきたんだから許してよ」

 なるほど、これはただのいたずら道具ではなく私のためのものだったらしい。そう言えば彼は保健委員だったと思い出しながら礼を言って受け取る。再び寝転び額に当てると、飛行機がこちらへ向かってくるのが見えた。

 学校の近くに空港があるため、ここらの飛行機は皆低空滑走だ。お陰で飛行機が間近に迫ってくるとうるさくて仕方ない。あの飛行機もじきにこっちに来て頭上で騒ぎ立てることだろう。

 徐々に大きくなる音に、頭痛が共鳴している錯覚を覚え、顔をしかめる。菅がこちらへ向かって何やら口をパクパクさせているが全く聞こえない。

「なーに?!!聞こえない!!!!」
「×××××」
「だから聞こえないって!!!!!」
「×××××」

 埒があかない。

 飛行機が空港の方へ飛び去り静かになる。心なしか菅の顔もいつもより色が褪せていた。

「さっき、なんて?」
「体調悪いなら保健室行こうぜって」

 過ぎてから言えば良かっただろうに。

 困ったように微笑む菅が、さっきのいたずら少年とはまるで様子が違ったためだろうか。急に菅が大人になったような気がした。何かを忘れてきたような、そんな危うい雰囲気すら漂っていて、思わず菅の腕を掴む。

「保健室、連れてって」

当然、という表情を取り繕いながらも不安で仕方なかった。飛行機が通った間に彼かどこかに攫われてしまったような感覚だった。

 彼もさっきのイルカのように海に潜ったのだろうか。そうだといい。それとも単に消えただけなのだろうか。もう私は見失ってしまった後なのか。

 あの瞬間に、恐らく何かが手遅れになった。彼は今も目の前にいるのにも関わらずそう予感する。思わず彼の腕を取っている手に力が入った。

「しょうがないにゃあ。いいよ、連れてってあげる。久岡ちゃん貧血っこだからなぁ」

 はい、と屈んで背中を見せる彼にほぅ、とため息を落とす。

「よかった」
「……俺もよかったよ。お陰で体育がサボれる」

 けらけらと笑う彼はもう水面に上がってきたのだろう。彼の背中越しに空を見ると、イルカがまた空を泳いでいた。



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