短編
笹揺らす
 デジャヴュ、という言葉が頭を過った。
 宙に体が投げ出される。ひゅ、と喉が鳴る音。地面が迫るのを体にかかる負荷から感じる。そういえば朝配られた短冊に願い事を書いてなかったな、なんてどうでもいいことを思いだした。パニックに言葉を失う私の背に手が回り、引き寄せられる。初めて会ったはずなのにその手はやけに甘かった。きゅ、と握りこんだ彼のシャツからは優しい香りがする。一瞬緑に煌めいた三年生を示すバッジが、やけに印象に残った。

 ぱちんと指が鳴る。星屑が指の周りで輪を作った。大丈夫、と髪を撫でる手がどこか懐かしい。星屑が線香花火のようにパチパチと煌めき、ほろりと崩れる。笹が風に吹かれるような、涼しい音がした。

 チリン。

 気が付けば、足は地面に付いていた。元通り、学校の屋上だ。一仕事を終えたとばかりに伸びをする彼。しなやかに組み直された指先が艶っぽい。日の光が紙を明るく透かして、彼の輪郭が空気に溶けこむ。

 髪を攫う風に、彼に見入っていた自分を自覚した。またザァ、と笹の風に揺れる音。見れば、屋上の片隅に七夕の笹が置かれていた。今日の七夕イベントのためのものだろう。先程の音も、あの笹からしたのだろうか。考えを巡らせる私を意に介すことなく、彼はポケットから取り出した短冊を破いて空に投げた。風は容易く紙切れを飛ばす。紙切れを見送った彼は、自然な所作で私に視線を流した。

「……、」

 彼の口が何かを紡ぐ。名前を、呼ばれた気がした。

「猫センパイ」

 不思議と、言葉が漏れ出る。確かに三年生なら、先輩だけど。なんで猫センパイなのか、なんて私だって分からない。それでも、なぜかそうなのだと、確信めいた何かがあった。猫センパイは、一瞬呆気にとられたような顔をした後、泣く寸前みたいにクシャリと表情を崩す。子供っぽい垂れ目がちの目元がふわりと緩んで、優しく呼びかけに応えた。

「なに」
「助けてくれて、ありがとうございました」

 猫センパイは、目を軽く大きくすると、また、柔く笑みを零す。

「まずそこなんだ」
「、へ」
「君、屋上から落ちたんだけど」
「あっ」

 猫センパイの、魔法。先輩に気取られてすっかり忘れていた。私のリアクションが面白かったのか、猫センパイは喉を鳴らして笑う。体を曲げながら笑う猫センパイは、笑いすぎからか少し苦しそうだった。少し涙で潤んだ猫センパイの瞳にどきりとする。

「ほんと君っておもしろい」
「……私、二年の滝沢環奈って言います」

 猫センパイは気障な仕草で肩を竦めると、環奈ちゃんね、と口で転がす。ただそれだけなのに、記憶の奥底が波のようにさざめいた。

「猫センパイの名前は」
「宮田京太、三年。……よろしく」

 自己紹介をした猫センパイは口元を押さえ、噛まなかったな、と独り言ちる。噛む? と問うと、また泣きそうな顔で先輩は笑う。

「噛んじゃったんだ、前の時」
「なんて噛んだんですか?」
「ミャア田京太って」

 あぁそれで猫センパイなのか。納得しかけて、疑問に思う。仮にそうだとして。なぜ私がその呼び方を知っていた??

 体の芯の凍る感覚。自分の中に覚えのない記憶が混じっている。その単純な事実が心底恐ろしく、訳が分からなかった。

「気にしなくていい。自然なことだから」

 私の混乱を察したのか、猫センパイは言う。

「俺、よくこのあだ名で呼ばれてるからさ。耳に入っちゃったんじゃないかな」

 無理もないよ、という言葉はどこか切なそうな響きを宿している。

「逆によく覚えてたねって話で、さ」

 猫センパイは、あ、と声を上げ、私に手招きをする。

「髪に赤さびが付いてる」

 フェンスのかなと言った猫センパイは、さらりと私の髪に手櫛を通す。指先で優しく髪を解かした猫センパイは、そのまま私の耳を塞ぐと、何事かを呟いた。

「       」

 乞うように。寂しそうに言うものだから。私は咄嗟にその手を掴み、先輩を呼ぶ。

「猫センパイ」
「、何」
「私、約束は破らない方なんです」
「急に何を、」
「だから、約束をしましょう」

 私の言葉に、猫センパイは表情を揺らす。約束、と子供のように言葉を反復した先輩は、恐る恐る小指を差し出した。きゅ、と指を絡めると、先輩の瞳が滴に濡れる。

「じゃあ、」
「はい」
「……俺を、思い出して」
「はい」

 あっさりと言い切った私に、猫センパイは瞳を揺らす。

「……無理だ。思い出せっこない」
「叶いますよ」

 笹がざわめく。片隅に置かれているにも関わらずその音は妙に鮮明だった。短冊の風に踊る音。さっきまで吹いていなかった風が耳元で騒ぎ立てる。星が二人の周りを囲むように輪を作る。チカチカと眩しいまでに光るそれは、風に揺れることなく綺麗な円をくるくると回した。

「今日は七夕ですからね」

 ブレザーに折りたたんで仕舞っていた短冊を丁寧に広げる。願い事を書き終えると、私はそれを風に託した。辺りで吹き散らしていた風は、承ったというように天高く短冊を飛ばす。短冊が見えなくなったのとほぼ同時、星は花火のように散って消えた。キラキラとした星の残滓がうっとりと空気を彩る。

「猫センパイ」
「……、」
「思い出しました」

 猫センパイは、複雑そうな表情で私を見る。自分の願いが叶ったと、ただそれだけを考えていればいいのに。本当に、優しい人。

「私、一回死んだんですね」



 滝沢環奈は、美術部の後輩の中でも一際大人しい女の子だった。お世辞程度の控えめな笑みを口元に浮かべ、友人の話を聞いている。そんな、世渡りが下手そうな女の子。その一方で、俺に対してはいつまでも『猫センパイ』なんてからかってくるのだから訳が分からない。しつこいなと思わなくもないが、彼女の楽しそうな表情がやけに無邪気で、怒るに怒れないのが現状だった。端的に言えば、舐められている。

 ムム、と顔を顰める。いつの間にやら俺を追って屋上で昼食をとるようになった彼女は、皺が寄ってますよと涼しげに笑う。彼女の笑みに合わせて、屋上に置かれた笹がさぁ、と吹いた。

「滝沢はさぁ、」
「はい、なんですか猫センパイ」
「……猫センパイ言うなよ。滝沢は、七夕の短冊に願い事書いた?」
「私、ですか」

 彼女は不自然に言いよどむと、ジャケットのポケットを上から押さえて曖昧に笑う。

「書きましたよ」
「何書いたの」
「……、」

 ちらり、と送られた視線がやけに意味深で。胸がどきりと鼓動を打つ。彼女はそんな俺の様子に気付くことなく、へらりと薄い笑いを返した。

「秘密、です」
「へぇ」

 面白くないなと思った。その表情は、彼女がよく友人を相手にする時の曖昧なもので。俺の前でいつも小生意気に微笑む彼女らしくないものだった。俺の声が僅かに険のあるものだったからか、彼女は口をもごもごとさせる。何かを言おうとして結局口を噤んだ彼女は、言おうとした言葉の代わりに、怒ってますかと尋ねてくる。

「いや、怒ってない」

 多分、という言葉は飲み込んだ。硬い声は、明らかに不機嫌そうだったが、俺自身何にイラついているのかなんて見当もつかない。ただ何かが面白くなかった。

「嘘です。だって言い方冷たいじゃないですか」
「……そう?」

 問答が面倒くさい。倦怠感に体をフェンスに預けると、彼女はあ、と声を漏らした。あ? ……あ。

 フェンスが、背中から消える。腕が引かれ、誰かと体の位置が入れ替わる。いや、誰かなんて分かり切っている。彼女は、俺を屋上へと押し返すと、大人びた笑みを浮かべる。冗談めかす気配のない笑みは、地面から吹く風に踊る髪に、鮮やかに彩られる。

「みやた、せんぱい」

 大人びた表情に違和感を与えるほどの、澄んだ声。どこか幼さを感じさせるその声は、風に紛れて聞き取りにくい。ひゅお、と吹きこむ風に瞬いたその一瞬で、彼女は姿を消した。尻もちをつき、呆然とフェンスを見る。嫌な音が聞こえた。嫌だ。

 よろよろと、階段を降りる。足がもつれて、階段を踏み外す。覚束ない足取りで彼女の元へ到着する頃には、すっかり人だかりで彼女の周りは埋まっていた。

「……滝沢?」

 人を掻き分け、彼女へと近づく。彼女のすぐ近くへは怖くて近づけないのか、ぽっかりと人のいないスペースがあった。よろ、と近づき、抱きしめる。

「滝沢……?」

 猫センパイ、と返事は返ってこなかった。制服が、赤に染まる。俺と彼女の周りだけ切り取られたかのように、周囲の音が一切耳に入らなかった。ぽたり、赤がまた地面を濡らす。ぼんやりと視線でそれを追うと、赤の中に一つだけ、白いものがあることに気が付いた。短冊だ。手に取り、固まる。ああ、と声が聞こえた。

『猫センパイと両想いになれますように! 環奈ちゃんって呼ばれてみたい!』

 きっとクラスの笹には飾ることができず持ったままになっていたのだろう。クシャリと握ると、短冊は赤に染まった。

「……環奈ちゃん」

 ぽつりと、呼ぶ。やはり返事は返ってこない。呼ばれたいって言ったくせに。返事しろよ。真っ赤に染まった短冊がひらりと風に浚われる。遠くに飛ばされた短冊に、彼女がいないと体が叫んだ。いない。どこにも、彼女が、滝沢が、環奈が、どこにも……。
 震える手で自分のジャケットから短冊を取り出した。彼女の赤で、願いを綴る。どうか。どうか、今日が七夕なら。願いを託せる、そんな日なら。どうか。

 お願いだ。彼女を、滝沢環奈を生き返らせてください。

 星が瞬く。ぱちぱちと星が跳ね、世界は光に包まれる。風が笹を踊らせる。キーンと甲高い金属音が、空気を揺らす。空間が波打つ。空気に体が溶けこむ感覚。ぱちんと星が弾け、弛んだ空間が元に戻る。気が付けば、俺は“おれ”になっていた。手元には、持っているはずのない白紙の短冊が一枚。もう一回、願いを叶えるためのものだと、直感的に理解していた。

「で? 宮田君? 美術部に入る? どうする?」

 突然黙り込んだおれに、先輩は怪訝そうな顔をしながら尋ねる。間違いない。高校一年の春に時間が戻っている。半ば呆然としながら、いえ、と断りを入れる。

「……やっぱり、やめておきます」
「さっきまで乗り気そうだったのに! コイツの説明が下手だったから? 嫌になっちゃったの?」
「なーんで俺だよ!」
「いえ、本当に、」

 半ば遮るように口を開いたおれに、先輩たちは少し驚いた表情を見せる。

「本当に、……違うんです」

 ぼろりと零れた涙に、目を見開く。時が戻ったことへの安堵か、これから彼女が死ぬかもしれないという不安か、恐怖か。

「守らなくちゃ、いけないんです。おれが、何とかしないと、彼女は、返事をしてくれなくなっちゃうから、だから」
「……厳しい彼女なのね?」

 要領の得ないおれの言葉に、先輩たちは変な顔をする。

「……だから、ごめんなさい」
「また気が変わったら入部して。うちの学校、どの時期からでも入部できるから。ね?」

 彼女が死ぬかもしれないから、美術部には入らない。彼女が死ぬかもしれないから、下級生とは関わらない。彼女が死ぬかもしれないから……、

 彼女が入学して、一年ちょっと。気が付けば、二周目のあの日になっていた。時折、彼女のことを思い出しては独り言ちる。

 ああ、絵が描きたい。彼女の笑った顔が描きたい。大人びた笑みではない、悪戯っぽい、いつもの笑顔を。

 そんないつもなんて、とうに失われてしまったくせに。

 不意に訪れた屋上に、彼女の姿はなかった。当たり前だ。俺は美術部に入っていないし、屋上で昼ごはんも食べていない。それなのに。どうして。

 きぃ、と追随するように開いたドアに、目を瞠る。――なんで。
 反射的に身を隠した俺は、息を顰め陰から彼女を見守る。わぁ、と小さく声を上げた彼女は、くるりと周囲を見渡してから溜息を吐いた。

「……あ〜、ストレス」
「……」
「やだなぁ。愛想笑いとかしんどいなぁ。いやだぁぁ……」

 あ、と思った。フェンスに手をつき伸びをした彼女の体が、一瞬下に沈む。フェンスは、あの日と同じように下へと崩れる。ガクンとバランスを失った彼女は、フェンスを追うように屋上から外へと投げ出される。

 助けを求めるように伸ばされた手を掴む。空中で彼女を自分の方へと引き寄せ、抱きしめる。あぁずっと。本当はずっと、俺は。

 瞬く星は、花火のようで。あの日と同じ光景。それでも、なぜだろう。彼女と見るこの景色は、悲しいほどに美しかった。



「猫センパイ」

 かけられた声に目を細める。猫みたいな顔、と呟く環奈は相変わらず舐め腐った態度だ。それでも彼女が彼女であることの喜ばしさに怒れない俺は甘いだろうか。

「入賞、おめでとうございます」
「ありがとう」
「……にしても、照れくさいですね」

 環奈は展示された俺の絵を見て、へにゃりと笑う。子供っぽい無邪気な表情にどきりと胸が高鳴る。慌てて絵の方に視線を逸らすと、今度は額縁の中の環奈と目が合った。俺の様子に気付いた環奈は、楽し気に口元を緩める。彼女の瞳を、星が瞬く。綺麗だ、と呟くと星に睫毛の影が落ちた。りん、と鈴の音を幻に聴く。風は笹を揺らさなかった。



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