短編
幸せのレシピ
「この水を飲み下して」

 受け取ったグラスは結露のために少し湿っていた。仄かに青く色づいた水を言われるがままに飲み干す。はて、と気づく。このグラスを手渡してきた人を僕はよく知らなかった。もしかするとその人が彼なのか、彼女なのかも知らないままに水を飲んでしまっていたかもしれない。

 飲み下したグラスを返そうとその人を見上げる。グラスを受け取ったその人は頭からくるぶしまですっぽり隠せるほどの長さの黒い外套に身を包んでおり、性別すら分からない。受け取ったグラスをその人は器用に指先で一回転させ、外套の中にしまい込んだ。

「この水はね、幸せの水なのさ」
「幸せの水?」
「悲しい時、憂鬱な時に雨が降ったり涙を零したりするだろう? それをね、透明な瓶の中に集めるのさ」

 取り出した瓶をその男──外套が揺すると、中に入った水はたぷんと音を立てて笑った。

「それじゃ、さっき飲んだのはあなたの涙なの?」

 尋ねるとおかしそうに否定する。

「ノン! もちろん違うさ! あれは君の水だからね。水は集めた本人が飲み下さなくちゃあ意味がない」
「意味がよく分からない。僕は水を集めたりなんてしてないよ」
「集めたんだよ、きっとね」

 外套はクスリと笑った気がした。顔が見えないので本当に気がしただけだ。外套は徐に瓶を僕の方に投げて寄越す。

「それはさっき言った君の水さ。その瓶の中に飴玉と輪切りにした檸檬、アップルミントを入れて三年間毎日欠かさず朝日を浴びさせるんだ。そうしたらさっき飲んだ幸せの水ができる」
「そうなの?」
「そうなのさ」

 あのグラスの水は思いの外手間暇かかってるらしい。

「飲んだらいい気分になっただろう?」
「なったかな?」
「なったんだよ、きっとね」

 そう言われたらそんな気がしてきた。

「今日みたいにまた泣きたくなったら涙をその瓶に溜めるといい。気が向いたらさっきの方法で水を作るんだ。飲み下すと嫌なことを忘れて楽しくなれるさ」
「麻薬だったりしないよね?」
「もちろんノンさ! 作り方はさっき教えただろう?」

 大きな身振り手振りで語る外套になるほど確かにと首肯する。外套の明るい口調に誘われて座り込んでいた路地から腰を上げる。そういえばなんであんなに落ち込んでいたのだったか。

 辺りを見ると、外套はすでに消えていた。ちゃぷん、お腹に抱えた瓶がまた音を立てる。水の音に、先ほど教えてもらったレシピを思い出す。そうだ、言われたとおりに幸せの水を作ってみよう。本当かどうか分からないから、取りあえずこれよりも小さな瓶に少しだけ。

 もらい受けた瓶の水を、小瓶に一部移し替える。近所のお婆さんが商う飴屋さんで買ったドロップをいくつも入れると、色がふわふわと雲のように水を泳いだ。瓶の首を持ちくるくると混ぜると、色も一緒にくるくると回る。サーカスのブランコのようで楽しかった。ある程度混ぜると水が青やら赤やら黄色やらに染まった。放っておくと、溶けきっていないドロップからまたふわふわと色が滲む。

 荷車を引きながら果物や野菜を売るオジサンから檸檬を買う。サービスだと言って嫌いなセロリも一緒に渡された。青臭い。食べるのは嫌だから花瓶に生けてみる。花のついていないセロリは目を楽しませてはくれないが、日に透かすと黄色の滲む葉は少しだけきれいだ。顔を近づけるとやっぱり青臭いけれど。

 買ったばかりの檸檬を上流から汲んできた水に晒す。ごしごしと皮を擦ると仄かに酸味の効いた香りが掌についた。研ぎたての包丁はリズミカルに檸檬を輪切りにしていく。一つ摘まんで食べると、奥歯がツンとした。
 小瓶に入れようとするが、檸檬の方が瓶の口より大きくどうにも入らない。無理やり檸檬を折りたたみ瓶にどうにか二枚押し込んだ。瓶の口は檸檬の汁で湿っている。

 庭に出て、育てていたアップルミントをもぐ。アップルミントは虫除けにいいと聞きかじったことがあったので前から育てていたのだ。太陽を浴びたミントは甘いような、涼しいような、鼻に通る匂いがした。

 軽く水に通し、瓶に入れる。ミントは檸檬を邪魔そうに避けながら底へと沈んでいった。

 朝が来る前に起きて家を出る。昨日材料を入れたばかりの瓶は仄かに温かかった。抱きしめ、朝日を待つ。果たして、朝日は訪れた。一日目の朝である。

 日が沈み、そしてまた夜が明ける前に家を出る。瓶を抱きしめ朝を待つ。朝日が昇り、瓶に日が差す。中の檸檬は嬉しそうに泳いだ。二日目の朝である。

 こうして、夏が過ぎ、秋が訪れ、秋が去り、冬になった。冬の寒さは身に堪え、辛いものがあった。息が白く染まるのが切なく、少しばかり立派な外套を買うことにした。外套は少し古ぼけたデザインだったが値が張っただけにとても暖かい。中地は取り外すことができるから季節を問わず着ることができると店主は教えてくれた。ここらの地域は砂風が強いから確かにとても使い勝手のいい品なのだろう。

 いい買い物をしたと内心小躍りした。

 時々、路地裏にいたあの日のことを思い出し、無性に泣きたい気分に襲われた。なぜあそこにいたのか、思い出すことはできなかったが心がじくじくと脈打ち涙が止まらなかった。あの日のことを思い出すたび、僕はもらい受けた瓶をたぐりよせ、その中に涙を溜めた。

 冬が終わり、春が訪れ、そうして三年がたった。いよいよ完成した幸せの水を飲んでみることにする。

 今日は朝から水の入った瓶をグラスと一緒に川の上流で冷やしていた。昼下がり、瓶を取りに行った帰り。ウキウキとそれらを抱きかかえ、家へと変える途中。路地裏に見慣れた人影を見た。この三年間、決して会うことはなかった人影に僕はぼんやりとしながら近寄る。頭の芯が何かに満たされ脳は思考を放棄していた。

 それでも何をすべきかはすぐに分かった。

「ねぇ君、この水を飲み下して」

 幸せのレシピを教えてあげよう。



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