楽しみしていたプリンを地面に落としたこと。授業中に爆睡かまして課題を増やされたこと。自転車を全力で漕いだらチェーンが切れたこと。
「いくつだった?」
「五つかな」
今週の後悔の数を指折り数える俺に凪(ナギサ)が首を傾げる。
「指は三つなのに?」
「うん、五つ」
いつだって後悔の数は折り曲げた指の数より二つ多い。それを知らない凪はそんなものかと曖昧に頷いた。
「旭(アサヒ)は運が悪い上に生真面目だから毎週毎週後悔することが多くて大変だねぇ」
俺はゼロ。
のんびりとした口調で言われ苦笑いを返す。後悔の数を数えようと最初に言いだしたのはどちらからだったか。毎週毎週代わり映えしない内容ばかりであるにも関わらず中学3年の夏から続くこの習慣は惰性故にか高3になった今でも続いていた。
始まりはそう、確か受験勉強が思うように進まないから二人で反省する時間を設けようという話からだったと思う。
毎週金曜日、下校時間になると二人で道々歩きながら指を折って後悔の数を数えた。数学のノルマをサボってしまった、家に帰って寝落ちしてしまった、過去問の直しをやらずに放ったらかしにしてる……エトセトラ。
二人でやろうと決めた反省会は、大抵の場合俺一人の反省会となった。凪はいつも「俺はゼロ!」と笑っていた。それは今でも。数える前に「俺、今日宿題やってくんの忘れて課題出されたんだよね〜」とぶうたれていても凪の指はいつだってピンとしたまま。卑怯なやつである。
本人曰く「まぁいっか! って割り切れるから後悔はしてないし」らしいのだがその言葉すら卑怯臭い。
「来週は何個だろうね」
へにゃりと困ったように笑う凪に肩を竦める。
「二個は確実」
「……ホント、生真面目なんだから」
凪は子供を慰めるようにぐしゃりと俺の髪をかき混ぜた。そうやってまた、甘やかす。それを享受しながらこの曖昧な関係に浸ろうと目を細める。卑怯はどっちだ。
□
好きだと言われたのは中学三年の秋だった。冗談だろ、と返した俺を見て凪は笑った。
「当たり前じゃん。俺ら友達でしょ」
いつものように困ったような顔をして笑う凪にそうか、と返すとうんと返事が返ってきた。誰がどうみても完璧だった『いつも通り』を手にして漠然と感じる。
そっか、本気だったんだ。
根拠なんてまるでなかったが、気付いてしまった。気付いていながら、俺はいつも通りに戻った振りをした。
ハリボテの日常に戻った週の金曜日。やっぱり凪はゼロだと笑った。俺の指は三つ折られていたが、後悔の数は四つだった。次の週も指の数より一つ多くの後悔を数えた。凪は「生真面目だよね」と顔を顰めた。その週も凪は変わらずゼロ個だった。
□
しゃらり、凪のシャツからネックレスが零れ落ちる。小さい砂時計モチーフのネックレスだ。
「珍しいデザインだな」
「うん、彼女がくれた」
ぴしりと固まる俺に凪はへにゃりと笑う。
「冗談?」
「ん、冗談」
いつもと同じ声のトーンで冗談を言うのはやめてほしい。少しムッとしたのが分かったのか頬を掴まれる。
「拗ねた?」
「誰が」
鼻で笑うとまた、いつものように困り顔をする。
「ごめん、気を引きたくて」
「……うるせぇ」
頭に乗せられた手を叩き落とす。手は、再び頭に乗り髪をかき混ぜた。
「そんな申し訳なさそうな顔するなよ」
「してねぇわ。手どかせよ」
大人しく離れた体温を惜しいと思う俺はやはり卑怯なのだろう。気まずさに目を逸らす。
「ところでそのネックレスどうしたの」
「最近買ったんだよねぇー。確か一分測れるとか」
「へぇ」
実際一分測ることなんてそうそうないから実質ただの装飾なのだろう。砂時計はアンティーク調にデザインされており、廃墟に取り残されたような物悲しさを宿していた。暗がりにぽつんとたった一つ立っている砂時計を想像し、気分が落ち込んだ。
「それ、なんだか寂しいな」
「寂しいの?」
凪が静かに問い返す。自分のこととも、砂時計のことともつかない質問。凪の首元の砂時計をひっくり返すと砂はサラサラと零れた。
「……うん、寂しい」
砂の零れる音を聞きながら答える。どちらに対する答えなのかなんて俺自身ですら分からなかったが零した言葉は驚くほどすんなり胸に溶け込んだ。
そうだ、寂しくなる訳だ。こういうのは亡くなった祖父が好きだったんだった。
□
祖父は骨董品が好きな人だった。人は好きなものに似るのだろうか、祖父――、爺さんは古臭い考えばかり大事にする偏屈な人で、骨董品みたいだと幼いながらに思っていた。爺さんに言ったら馬鹿にするなと容赦なく怒られたことだろう。頭に鉄拳でも加えられたかもしれない。子供を碌に子ども扱いしない、変わった大人だった。
決して甘やかすことをしないその爺さんは、俺が時折連れていく凪に対してはやけに優しかった。もしかすると実の孫以上に甘やかしていたかもしれない。凪は人の話を聞くのが当時から上手かったから、そういうところが気に入られたのだろう。
まぁ骨董品を見るなり埃っぽいだの黴臭いだの零す孫より趣がありますねと宣う凪を好むのは道理なのだが。
俺からすると爺さんは偏屈で口煩いジジイだった。会うたびに嫌いだとか煩いだとか、散々悪態をついた。実のところそんなに嫌ってはいなかったと気付いたのは祖父の棺がいよいよ火葬場に入れられる時になってからだった。
「安らかに」
祈りの言葉は情けなく震えた。強張った手で棺の中に祖父が好んでいた骨董品をいくつか入れる。最期に手元に残った砂時計をひっくり返し、爺さんの硬い手の中に無理やり握りこませた。
サラサラと砂の落ちる音が棺の中から僅かにした。
ガタン
棺の蓋が閉じられ、そろそろと火葬場に棺が入れられていく。
父さんはあの世でも骨董品に囲まれてさぞ幸せだろう、と父が言った。
言われて、自分のしでかしたことに気づいた。
骨董品なんか入れるんじゃなかった。あんな熱い火の中に宝物を入れたがる人じゃなかったことを俺は誰よりも知っていたのに。自分の宝物を人が大切にしてくれることを喜ぶような爺さんだったのに。
なんであの人が大切にするものを一緒に送ってやりたいなんて思ってしまったんだろう。
皆が良い弔い方をしたと蹲る俺を慰めた。誰も怒ってくれないことが悲しくて声を上げて泣いた。
葬式が終わり、翌週学校へ行くと凪が泣きそうな顔をして俺を待っていた。
「何で他人の家のジジイが死んだくらいでそんな顔してんの」
意地悪く鼻で笑ってみせると凪の表情は更に崩れた。
「だって、」
瞳から涙が零れた。頬を撫でた雫は光を反射し、眩しく輝いた。頬を掌で包み込むとほんのりと温かかった。子供みたいだと眠気で動きの鈍い頭でそう思う。
「旭が泣きそうだから」
泣かねぇよ、と返した言葉は思いの外弱々しかった。これじゃあ本当に泣くのを我慢しているみたいじゃないか。焦りながら喉の調子を整えようとするも、不思議と喉が震えて碌な声が出ない。
これじゃあまるで、
思考は長くは続かなかった。
「……寝れなかった?」
凪が俺を抱きしめ、目の下を親指の腹で優しく撫でる。隈でもできていたのだろう。男同士で何をと反発を覚えるも、ヤツの体温の心地よさに自然と身を預けてしまう。
「アホみたいに寝てたよ」
爺さんが。
不謹慎な冗談は自分の心にもろに刺さった。冗談に自爆するとはとんだ間抜けだ。
「ちゃんとお見送りできた?」
子供に聞くみたいにそんな優しい声で俺に話しかけるな。そんな優しい手つきで俺の頭に触れるな。そんな全てを受け入れるような、許すような瞳で俺を見つめるな!
頼むから――、誰か俺を怒ってくれ。
俯く俺の手に凪の手が触れる。同情をされているのだと思うと堪らなかった。手を振り払う高い音をどこか他人事のように聞いた。
いつもの困り顔が傷ついたように陰るのを見て、ハッと我に返る。
「ご、」
「――ごめん」
俺が謝るよりも早く凪が謝る。面喰い謝り損ねる。
「ごめんね、旭」
その日、凪は初めて反省会で一つだと答えた。何が言いたいかは痛いほどに理解できて、自分の不甲斐なさに項垂れた。後悔を指の数より二つ多く数えるようになったのはこの日からだった。中学三年の冬のことだった。
□
爺さんのことを思い出し俯く俺を励ますように凪が「いくつ?」と他の話題で気を逸らしてくれる。そういえばまだ反省会をしていなかった。思いを巡らせ指折り数えようとし、手が止まる。凪は不思議そうに首を傾げた。
「…二つ」
「いい週だったんだね」
「まぁな」
今週は運のいい日だった。良すぎて怖いくらいだ。
「凪はいくつだ」
どうせゼロと答えるのだろうと思いながら形式的に質問する。凪は唐突にネックレスを外して俺に突きだしてきた。えっ、と戸惑う俺に貰って、とぐいぐいネックレスを押し付けてくる。渋々受け取るとニッと笑う。
「うん、これで今週もゼロ個だ」
「え、凪、これ」
「本当はさ、これ旭のために買ったんだ」
息が詰まった。
「骨董品のこと、埃っぽいとか黴臭いとか言ってたけど、何だかんだ好きなの知ってたから」
呆然と受け取ったままの格好で固まる俺の手からネックレスをさらい、俺の首につけてくる。
「ん、似合う」
「……ごめん」
優しさに浸るだけでごめん。気付かない振りしてごめん。与えられっぱなしでごめん。手を振り払ってごめん。傷つけてばっかでごめん。
優しさに罪悪感を抱いたらもうだめだった。何に対してか定かでないまま謝る俺に凪はへらりと微笑む。
「何に対してか分からないけどさ。多分旭は何も悪くないよ。それだけは絶対なんだ」
なのに謝っちゃうんだから、ホント生真面目だよね。
ほら、似合うとネックレスに触れる凪に、肩の力が抜ける。凪はなぜこんなに俺を安心させるのが上手いのだろう。
「……爺さんの棺に骨董品を詰めたんだ」
ポツリ、中三の時のことを話し出す。凪は相槌を打つ。
「爺さんは骨董品を大切にしてたのに。宝物を燃やしてほしいはずなんてなかったのに」
後悔に声が掠れた。良かれと思ってした思い出は、今になっても痛い思い出のままだった。
「……ちゃんと見送ること、できなかったんだ」
しん、二人の間に静寂が落ちる。凪は少し表情を消し、それから切なそうに瞳を陰らせ微笑んだ。
「……ねぇ旭。お爺さんの遺品さ、実はまだ他にもあるんだよね」
「は?」
チャラリ、俺の首下を持ち上げ手で遊ぶ。
――まさか、これが。
「お爺さんさ、一回蔵を整理するとか言って骨董品をいくつか手放したことあったでしょ」
結局爺さんはほとんどのものを手元に残したからさほど蔵に変化はなかったけれど、確かにそんなことがあった。
「こないだ骨董品を商う店に行ったらたまたま見つけたんだよね」
全部燃やしたと思ってたのに。
「探して、くれたのか」
凪は俺の言葉に少し顔を顰めた。手をひらひらと振り否定する。
「やだなぁ、たまたまだよ。俺そんな真面目じゃないからさ」
申し訳なさに胸が詰まった。俺はこいつに何もしてやれてないのになぜこいつはこんなに甘いのだろう。
「……ごめんな」
謝る俺に凪は首を傾げる。
「何について? 旭が俺の恋心に気づいていながら気付いてない振りをしてること?」
ぎくりと体が強張った。なんで、とかそういった言葉はグルグルと頭の中を巡っていたが声にならない。
「ねぇ旭。旭は気付いてないかもしれないけどさ、」
凪は意味深にニヤリと笑う。
――旭って俺のこと好きなんだよ。
「っハァ!!!??」
耳元に落とされた言葉に反射で反発する。視線がウロウロと彷徨い、そして凪に行きついた。困ったような、少しうれしそうなそんな顔。
――あ、好きだ。
自覚した瞬間体温が上がる。顔だけ別の生き物であるかのように熱く火照る。
「ほら、だから言ったじゃん。旭は何一つ悪くないって」
ニヤニヤと意地悪く笑う凪を直視できず、視線を落とす。
「ねぇ旭。俺、ずっと前から後悔よりも数えたいものがあったんだ」
旭の口が耳に寄せられる。気配に体を震わせた俺を凪は少し笑い、声を落とした。声は、砂糖のように淡く溶けて心に染みる。
「……いいよ、数えようか」
了承すると、凪は破顔する。
一年後には一つ、二年目には二つと指を折るのだと思うと口元が緩んだ。さらり、砂時計の砂が存在を主張する。砂時計を見てももう寂しそうだとは思わなかった。
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