BL短編
ペトリコールまでさよなら
 ポツリ、頬が濡れる。涙かと思った。空を見上げるとどんよりとした重苦しい雲が空に腰掛けている。あぁそうか、雨だ。そういえば今朝のニュースで梅雨前線が近づいていると言っていた。

 雨の日は嫌いだ。あの地面から沸き上がる匂いがどうしても受け付けない。片頭痛で体が怠い上に思考も鈍る。雨特有の水分を吸って重くなった空気も嫌いだった。

 仕事が早く終わったから久しぶりに帰りに本屋にでも寄ろうと思っていたのにこれでは台無しだ。ワクワクと盛り上がっていた気持ちが萎んだのを感じる。前髪がぺたりと額に掛かった。あぁ鬱陶しい。鞄の中に入れてあるスマホが振動した。取り出し画面を見ると『古池三郷(フルイケ ミサト)』とあった。落ち込んでいた気持ちが高揚する。やや浮かれながら通話ボタンを押した。

「……もしもし?」
「おいリン、傘忘れただろ」

 前置きもなしにいきなり要件を切り出す三郷に内心呆れるが、彼にとっては珍しいことでも何でもない。いつものことだ。鞄の中を確認しようとするも、そういえば朝準備したまま玄関に置いてきてしまったことを思い出す。

「あぁ、忘れたみたいだな」
「他人事かよ。迎えに行くから会社の前で待ってろ」

 自己中心的な言動の多い三郷にしては気が利いている。そんなことを言ったら怒られてしまうが。三郷は怒りっぽいのだ。

「分かった。では待ってる」

 プツリ、電話が切れた。愛想がない。はぁ、とため息を吐くが頬の緩みは抑えられない。何だかんだ奴に優しくされるのは嫌いではない。頭がずきりと痛むが、この程度なら我慢できるだろうと長く息を吐いた。

 20分後、傘を持った三郷が現れた。三郷曰く車の免許は持っているらしいのだが車は持っていない。まぁ、三郷は俺の家に居座っているニートだから俺が車を持っていない以上当たり前といえば当たり前なのだが。

 三郷を拾ったのもこんな雨が降っている冬の日だった。ずぶ濡れになって電柱の傍でしゃがみ込んでいる三郷に凍えてしまうのではと心配になり声を掛けてしまったのが全ての始まりだった。

 その日以降三郷はなんだかんだ家に居座っている。仕事は恐らくしていない。いつもフリーサイズのパーカーを羽織っている上、コンビニとCDショップに行く以外で外に出るところを見たことがない。偶に今日のように会社まで迎えに来てくれることがあるくらいだ。

「帰るぞ」
「あぁ、ありがとう助かった」

 礼を言うと三郷は不機嫌そうに鼻を鳴らす。三郷の照れた時の癖だと知っている俺はゆるりと口元を緩めた。

「…なに笑ってんだ」
「笑ってない」
「ッチ、うぜぇ」

 いつも通り辛辣である。ニヤニヤと笑う俺が余程嫌だったのか三郷は顔を顰めた。これ以上機嫌を損ねるのもよろしくないので慌てて顔を無表情に戻す。

「ほんとかわいくねぇ」
「悪い」

 謝ると三郷は更に嫌そうな顔をした。一本余分に持ってきた傘を俺に押し付けると俺を放ってさっさと歩きだしてしまう。慌てて追いかけようとするがうまく傘が開けない。三郷の姿が遠ざかるのに慌てて傘と格闘しつつ雨の中に出る。スーツが雨に濡れる。

「ちょ、三郷待てって」
「……お前、馬鹿か」

 振り返った三郷は、あたふたしている俺に心底嫌そうな顔をする。面倒くさそうに俺の元まで歩み寄ってきた三郷は自分の傘の中に俺を入れてくれた。

「濡れないように傘持ってきてやったのに濡れてんじゃねぇよ」
「……あ、あぁ、ありがとう」

 右に俺、左に三郷。一つの傘に入り家まで帰る。先ほどと違い歩くペースは俺に合わせてくれている。隣を歩く三郷の顔を見ると相変わらず顰められていたがやはりいつもよりも雰囲気が柔らかい。

「頭痛は」
「今はまだ大丈夫。ちょっとぼんやりするが」
「痛ぇんじゃねぇかよ」

 三郷は舌打ちするとポケットから頭痛薬を取り出し俺に渡す。

「ありがとう」
「やせ我慢すんじゃねぇ」

 やはり雨の日の三郷は優しい。嬉しさに言葉が零れる。

「なぁ三郷」
「あん?」

 舞い上がった勢いのままに想いを告げかけてあ、と気づく。自分の迂闊さに顔が青ざめた。この言葉を告げれば今の関係は終わってしまう。あともう少しで三郷を失うところだった。こくりと大して出てもいない唾を飲みこむ。

「……ありがとうな」

 代わりに絞りだした言葉に、三郷は冷たい目を俺に向ける。

「ほんっと、嫌いだわ」
「……知ってる」

 へら、と笑うと三郷は地面に視線を落とす。はぁ、と吐かれたため息に肩が竦んだ。雨脚が急に強くなる。傘で弾ける雨の音がやけにうるさい。沈黙は雨に溶けた。

「着いたぞ」

 気付けばマンションの前だった。傘を畳む三郷に礼を言うと顔を顰められる。

「……いつも、」

 三郷は口籠る。彼らしくもない挙動に不思議に思い問い返すと、瞳が揺れる。道に迷った子供のような顔に戸惑った。

「三郷……?」
「……うるせぇ、入るぞ」

 やや強引に会話を切り上げた三郷は、もういつもの三郷だった。俺を置いてエントランスに入る三郷の背中に、気のせいかと安心する。三郷の左肩は雨で濡れていた。




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