あの夏の日を忘れない
36
 徒競走の時間になり、出場者の列に並ぶ。円の横に立つと、隣から身を硬くする気配を感じた。

「円」
「っ、何だ」

 びくりと怯えるように円が縮こまる。そんなに緊張していてはまともに走れないだろう。俺は円の手をぎゅっと握る。指先は驚くほど冷えていた。

「円、負けねぇから」

 真剣勝負、するんだろ? 笑うと、円は体の力を抜く。へらり、笑う顔は驚くほど自分に似ていた。

「、言ってろ」

 一個前の選手が走りだす。いよいよ俺たちの番だった。クラウチングスタートの姿勢を取る。ゴールテープの前には、相変わらずの幻影。ただ違うのは、その隣にカメラを構えた南部先生がいるということか。

 シンと辺りが静まり返る。いや、俺自身がそう感じているだけかもしれない。一切の音が取り払われる。実行委員が空砲を握り直す音さえ聞こえそうだった。ドキドキと心臓の音が煩わしい。足をずらすと、ざり、と土が靴裏で擦れる音が聞こえた。パン、と音が鳴る。足が、前に出る。幻影が、口を開き、叫ぶ。

「頑張れッ!」

 はっと見ると、牧田がレース横で叫んでいた。お守りを握りしめこちらを食い入るように見つめる牧田に苦笑する。だから、なんでお前がそんな顔するんだっての。

 足が軽かった。喧嘩をしている時よりも、家から逃げ出したあの日よりもずっとずっと軽かった。このままテープを切ったら遠くへ行ってしまえるんじゃないか。そんな馬鹿な想像すら、本当になってしまいそうなほど。

 テープを切る。あっという間だった。幻影は俺の横で微笑んでいた。頑張ったね。幼稚園のころのように微笑むその陰に、ずっと褒められたかったのだと思い出す。叶わないと諦めていた幻は、今この瞬間に確かに叶ったのだ。それが例え夢幻でも、俺の中で唯一の真実で。誰が否定しようと、疑いようのない現実だった。

「椎名ッ!」

 牧田が駆け寄る。泣きだしそうなその顔に、へらりと笑う。

「ほら、勝てただろーが」
「……ッ、ああ」

 牧田は、くしゃりと歪んだ顔のまま、俺の手を引く。熱と、高揚感と、多幸感。その全てに包まれた俺は、大人しく導きに従う。

 牧田は、校庭から離れ、裏門にたどり着くと歩みを止める。牧田はそのまま横道の森の方に入り、バイクを引っ張り出してくる。ほら被って、と投げられたのはヘルメットで。言われるがままに被ると、今度はバイクの後ろに乗るように指示される。

「免許は?」
「持ってる」
「ならいいや」

 捕まって、と言われ腰に手を回す。ブロロロ、とバイクはエンジンを唸らせ走り出した。学校を抜け出し暫くすると、牧田の肩が震えはじめる。泣いているのかと思われたそれはしかし、牧田自身の笑い声によって打ち消される。

「っは、はははははッ、あー、笑った! すっきりしたーッ!!!! お前マジでかっけぇな!!!」
「うるせー!!!」
「お前もうるさいわ!!! はっははははは! 勝てねぇとか泣き言言ってたくせに勝っちまったよッ!!! かっけぇー!!!!!」

 大笑いをする牧田。気でも触れたかのような笑い声は、牧田らしくもなく明るいもので。牧田が不意にスピードを上げる。うわ、としがみつくと牧田はまた愉快そうに笑った。風の音がうるさくて、先ほどまでのように耳に届くことはなかったけれど、その震える背中を見れば笑っているのだと分かった。

「──きだ」
「なんだってー!?」
「──だッ!」
「聞こえねー」

 こんなに近くにいるのに、何を叫んでいるかまるで聞こえない。このやり取りすら馬鹿らしくて、面白くて楽しくて。二人で背中を震わせて笑いつづけた。




 バイクが停まったのは『ヘアサロンKAGA』という店の前。牧田は俺の手を引き、店に入る。カランカランとベルの軽快な音が俺たちを迎えた。いらっしゃいませ、という声が店の奥から聞こえる。

「あら、朱満くんじゃない。まぁた授業さぼってんのー?」
「サボってませんー。それより深雪(ミユキ)さん、こいつの髪金色に染めてやって」
「ん? あ、お友達ね。こんにちは、朱満くんのお兄さんの奥さんやってます、牧田深雪です」
「あれ? 店の名前は加賀って」

 言うと、深雪さんは旧姓だと教えてくれる。

「で、染めてくれんの。くれないの」
「やるわよー。支払いは朱満くん持ちなの?」
「ん、それでいい」
「えっ、ちょ!」

 慌てる俺に牧田はご褒美だと笑う。俺は子供か。苦笑するも、牧田の表情にそれ以上の言葉を飲み込む。機嫌の良さそうな牧田に、水を差すのも無粋というものだろう。ここはありがたく厚意を受け取ろう。で、また今度別の形で返そう。そうしよう。

 施術は二時間ほどで終わった。見慣れた金髪に、ほっと息を吐く。牧田は「似合う」と事もなげに言う。こいつ、こういうのサラッといえるあたりモテそうだよなぁ。

 牧田が、深雪さんに値段を尋ねる。深雪さんはカラカラと笑い、いいわよそんなのと言った。でも、と言い募る牧田を深雪さんは軽くあしらう。困ったように笑う牧田に、なんとなくこいつは深雪さんのことが好きだったんだろうなぁと思った。

 牧田に小声で話しかける。

「深雪さんのことが好きだった?」
「……変なところ鋭いよねぃ」

 牧田は苦笑し、好きだったよと答える。

「でも今は、」

 牧田の言葉を遮るようにスマホからコール音が鳴り響く。どうしようと牧田の顔を窺うと、取ってもいいよとお許しが出た。スマホの表示には、畠一秀の三文字。

「もしもし」
『あ、もしもし。由、今いいか?』
「いいよ。どうかした?」
『夏休みに、テーマパークのお土産の立案をした人物を探せって言ってただろ。色々入り組んでて分かりにくかったんだが、誰が立案したか分かったから電話したんだ』

 一秀の言葉に、ああと相槌を打つ。そういえば頼んでたな。どうだった、と尋ねると一秀はそれがな、と話し出す。

『立案したのは、加賀理(オサム)っていう男だったんだが、そいつに話を聞きにいくとどうもそいつが考えた訳ではないらしくてな』
「ほう」
『実際に考えたのは妹の旦那の弟なんだと。名前も聞いたから言うな』
「ああ」
『名前は、牧田朱満。桜楠に通ってるらしいから探してみたらどうだ?』
「おー……そうするわ。ありがとう」

 電話を切る。加賀治。ヘアサロンKAGA。ぱちぱちとパズルのピースの嵌まる音がする。目の前の牧田は、電話が終わったのが分かったのかそろそろと近寄ってくる。この優秀な人材、逃がしてたまるか。がっと牧田の腕を掴む。牧田は、俺の動きに目を見開いた。戸惑う牧田を意に介すことなく俺は告げる。

「牧田。椎名グループに就く気はないか?」
「……はぁ?」

 牧田の腑抜けた声が、ヘアサロンKAGAに響いて聞こえた。


【四章に続く】




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