あの夏の日を忘れない
9
 結局教室に戻ったのは五限終わりの休み時間。教室に入る俺を見つけた花井と三浦が軽く手を上げ迎えてくれる。

「おかえり。遠足行くとこ決まっちゃったよ」
「? 遠足?」

 頬杖をつきながら告げられた言葉に首を傾げる。

「五限に決めるって前から言ってたでしょ」

 そうだったか。テストのことで頭がいっぱいで全然記憶にない。俺の様子に覚えていないことを悟ったのか、花井は呆れた目でこちらを見やる。三浦は我関せずといった調子でスマホを弄っている。どこをハックしているんだか。

「何に決まったの?」
「河原でバーベキュー」
「へぇ。俺やったことないな」
「そうなの? じゃ、楽しみだね」

 教室に田上先生が入ってくる。次は数学か。相変わらず服装はだらしがなく、髪もぼさぼさ、髭も剃り残しが多い。田上先生はふわぁと欠伸をし教卓に立つ。

「ほーら始めるぞー」

 委員長の号令に合わせて礼をし、着席すると先生が声を掛ける。

「前回の復習から行くぞー。教科書開けー」

 教科書を開き前へと視線を戻すと、先生と目が合う。

「おー、椎名。さっきのLHRで遠足の行き先決まったぞ」
「すみません。バーベキューでしたっけ」
「そーそ。聞いてるならまぁいいか。次から無断でサボらねぇようにな」
「はい」
「話しかけたついでに練習三番解いて」

 根に持ってんのかよ。
 苦笑し教科書片手に立ち上がる。

 関数の問題か。テストの範囲だった問題だ。復習でもさせるつもりか。チョークを手に取りスラスラと式を書く。答えの下に線を引き、チョークを置くと先生は軽く頷く。

「うん、できるな」
「……はぁ」

 ふむ、と手を顎に当てる。考え込む素振りを見せる先生を内心不思議に思いつつ、席に戻る。

「……椎名、放課後数学準備室な」
「ハァッ? えぇー……」
「一応前の時間サボったんだから甘んじて怒られろ」
「はぁい」

 ふーんと言う声に隣の席を見ると、花井が片眉を上げ田上を見ていた。

「意外」
「……なにが?」

 花井は俺の問いに答えず、にこりと浅く笑う。

「今に分かるよ」

 何のことだか。


 放課後。
 呼び出された俺は数学準備室へと向かう。

 コンコンと扉をノックするも返事はない。失礼します、と言って中に入ると、そこは書類の山だった。見ると宇宙に関する記事の切り抜きや論文、教科書が散在していた。

「ん? お、来てたのか」

 扉の開く音と共に先生が現れる。たまたま部屋を出ている時に来てしまったらしい。

「先生、理科できるんですか?」
「あー、それか。できるぞ、数学よりずっと。俺の専門、宇宙物理学だし」

 研究職に就きたかったんだけどな、と先生は苦笑いする。

「さーて。俺の話はこれくらいにしてもらおうか。話したところで面白くもない。それよりお前の話だ、椎名」
「課題とか出されるんですか?」

 居住まいを正す俺に、先生はきょとんとする。つと顎に手を当て、考える素振りを見せる。

「あー、そういえばそういう体でお前を呼んだんだったか。違う違う、説教じゃない。俺がそんなこと進んでやると思うか?」

 確かにそうだな。そう言われてみれば違和感があった。

「第一、勉強は罰にするもんじゃねぇ」

 頭をかきながらのっそりと言われた言葉にへぇ、と嘆息する。なんだ、この人意外と先生じゃないか。

「お前を呼んだのは、前期第一回試験の結果についてだ。あれは、なんだ?」
「新しい環境でちょっとバタついてたらあのザマです」
「……ほぉ?」

 先生は数学の教科書のページを繰る。開かれたのは、練習三番。授業で当てられた問題だ。

「スラスラ解けてたな」
「……そうですね」
「そしてこれが、」

 引き出しから書類の束を取り出す。その中からお目当てのものを見つけると、先生はパサリとそれを俺の前に置いた。

「お前の解答用紙のコピーだ」

 うわぁ。密かに動揺する。練習三番と全く同じ問題。解答用紙は、空欄だった。消しゴムで消した跡さえなく、ただただ真っ白。なるほどな。前で問題を解かせたのは確認のためだったということか。

 平静を装い、笑みを浮かべる。

「……テスト終わってからすぐ、復習したんです」
「そうか。勉強熱心でよろしい。でもな、椎名」

 大人をそう簡単に騙せると思うなよ。

 困ったような表情で頬杖をつきながら言う先生に、花井の言葉を思い出す。確かに意外だ。この人はこんなにも大人だったのだ。花井が何やらを察した表情をしていたのは、先生が俺のことを試したと理解したからなのだろう。

「……怖かったんです」
「……怖い?」

 ポツリ、言葉を零す。まるでまとまりのつかない思考をかき集める。何を話せばいいのか分からなかった。口元に笑みを浮かべようと試み、失敗する。できた笑みは見なくても分かるほどに不格好だった。コポリ、部屋の隅に置かれた電気ケトルが音を立てる。

「先生は、入学時に渡された書類、失くしたんでしたっけ」
「いや。見つけてもう読んだ。だからお前とこうして話してる」

 硬い声で話す先生に、本当に読んだのだと理解する。そうか。じゃあもう、知ってるんだ。

「……円に勝つことが、怖いんです。負けることも怖いけど、勝つことの方が、怖い」

 カタリと立ち上がり、先生はココアのもとと牛乳をマグカップに入れ、電子レンジにセットする。電子音が聞こえた。そのまま何も言わずにもう一つのマグカップにコーヒーの粉を入れ、電気ケトルのお湯を注いだ。
 完成したココアを俺の前に、コーヒーを自分の前に置き、先生は再び椅子に腰をかける。

「、いただきます」

 ココアはできたばかりで熱く、少し舌がヒリヒリしたが、甘くて美味しかった。どんよりとしていた気持ちが浮上する。

「ん、うまいか」
「はい、おいしいです」
「そらよかった。目分で作ったからちょっと不安だったんだ」

 言われると、ココアの袋掴んでそのままコップに入れていたことを思い出す。

「妹が言うには先に粉に少量の水を落として練ってから作るとダマができないらしいが……まぁ飲めりゃいいだろ」

 一人でそう結論づけ、飲め飲めと促してくる。熱が逃げたのか、ココアはまだ温かかったものの先程より飲みやすい。

「椎名」
「はい」
「俺は生徒会の顧問をやってるんだがな、」
「……はい」
「お前の兄さんはお前が思ってるよりずっと優秀だぞ」

 告げられた言葉に、目の際がピクリと震える。

「そう、ですか」
「だからな、椎名」
「お前は安心して頑張ってもいいんだぞ」

 返す言葉を咄嗟に思いつかず、顔を手で覆い天を仰ぐ。色々な感情が混在していた。それでも、やはり思うのは。

「よかった……」

 田上先生の手が頭に伸び、不自然に宙で彷徨わせたまま下へと落ちる。

「頑張るのは、怖いだろう。負けるのも、お前にとって怖いことだろう。忘れるな、椎名。ここではお前が頑張ることを否定する者はいない。お前にも頑張る権利がちゃんとある」
「……はい」

 次のテストでは、と先生は言わなかった。それだけなのに、無性に甘やかされた気がして。気恥ずかしさに、残っていたココアを飲むことで顔を隠した。





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