あの夏の日を忘れない
7 牧田朱満side
 椎名はテストまで毎日F組を訪れた。そう暇ではないはずなのに、授業が終わるとFまで神谷とかいう一年とやってきては勉強をみて帰っていく。お陰でFの連中は妙にやる気を出し勉強に励んでいる。今回の平均はかなり上がるだろう。とはいえ、いつもがいつもだからそれも当たり前なのだが。

 椎名は実際かなり賢かった。あの日。椎名に正面から食ってかかったあの日。同情でもするかと思ったのだ。同情したらすぐに見切ってやろう。そう思っていた。本当に、賢い男だ。奴は俺がそれを望んでいないことに気づいていた。見限るつもりで投げつけた試金石をあっさりと紐解かれ、あまつさえ俺の内心をも看破してみせた。気に食わない、何もかも。

 気のいい友人が盗られそうであることも気に食わないし、椎名の禄に言い返さない姿も、相手にされていないようで気に食わない。俺を気に掛けている姿も高慢で嫌いだし、Fを一人で潰せるその強さも嫌いだ。大嫌いだった。

「テスト結果貼られるってよ」

 菖ちゃんがそわそわとした風に言う。テスト結果は、本校舎の方へ行かないと見れなかった。というのも、北校舎では貼り出しがないからだ。見る者がそもそもいなかったのだから無理もない。

 いつもよりよくできたらしく、菖ちゃんはどこか落ち着きがなかった。

「行こうか」

 俺たちの訪れに、本校舎は酷くざわついた。好意的なものとは言いがたいざわめきは、他のものにすぐにかき消されることになった。椎名がテスト結果を見にきたのだ。順々に張り出されていく結果を、彼は緊張した面持ちで見つめていた。お前ほど賢い男が何を気にすると言うのか。

 俺の苛立ちに気づくことなく、彼の目はじっと掲示板を見つめている。横から、「お」という菖ちゃんの低い声が聞こえた。前回より上がっていたらしく、ほんのり嬉しそうだ。張り出しの番号が七十番台になった時、「え」という短い声がいくつか発せられる。末尾には椎名由の三文字。明らかにおかしかった。

 編入生の、一発目のテスト。だが何人かは気付いただろう。こんな成績でこの学園に受かるはずがないのだ。彼がとった成績は、A組にぎりぎり引っかかる程度のものだった。

 ふと、安心したように緊張の抜けた彼と目が合う。瞬間、理解した。

「だから、言っただろ。──俺は円に勝てないんだ」

 自身がそれを望んだくせに。まるでそれに縛られているかのような苦しげな表情をして、柔く微笑む彼に、俺は。

 不愉快だった。椎名が嫌いで嫌いで仕方ない。ああ本当にどうして。彼と俺はこんなにも。

 唇を軽くはんだその時、空間が揺れた。群衆の一部が割れ、道ができた。桜楠円だ。桜楠は周りの期待するような目を一瞥もせず、まっすぐ掲示板前までやってきた。ちらり、結果を見る。一位だ。

 特にリアクションをすることなく、桜楠は銀縁フレーム越しに掲示板を冷たく見やる。七十位代まで目を移し、そして気付いたのだろう。不意に視線が彼を捉える。

「由、」
「やぁ円。一位おめでとう。敵わないな」

 本当に、と彼の唇が続ける。声は聞こえなかった。桜楠は訝しげに目元を細める。

「由、お前どうしたんだ」
「……何が?」

 直接的な質問に怯えたのか、彼の重心が後ろに寄せられる。いくつかの言葉を彼が飲み込んだのを理解する。にこり、笑う顔は泣き出す直前のように見えた。誰が気付けたというのだろう。楽しげに笑う椎名の内心がこんなにも弱々しいものだと。勘弁してほしい。なんで今になって現れるんだ。もう俺はすっかり忘れたのに。

 蹴り上げた足は無意識だった。
 足が衝撃を捉える。はたと冷静になる。足は椎名の脇腹に当たっていた。桜楠を庇ったのだ。周囲の悲鳴が鬱陶しく絡みつく。菖ちゃんのびっくりしたような顔が見えた。

「……どうした」

 詰るでもなく、静かに問われた言葉に、ひくりと喉が震える。ひたり、合わせられた目に、怒りの色はない。

「……邪魔してんじゃねぇよ」
「一応風紀委員だからな」

 笑う椎名の右腕には、風紀の腕章。でも、そうじゃないだろう。お前は、その肩書きがなくても護ろうとするんだろ。

「俺、桜楠会長嫌いなんだよねぃ」
「そうか」
「椎名、お前も嫌い。大っ嫌い」
「……そうか」

 椎名は率直な嫌悪に苦笑する。

「笑ってんじゃねぇ。ホント、気に食わない」

 手首を掴み、走り抜ける。群衆の戸惑う声。椎名は特に抵抗らしい抵抗もせず、大人しく付いてくる。

 308の自室に無抵抗の椎名を突っ込む。疲れ果てたようにぼんやりしている椎名をベッドに縫い付ける。彼はそこで覚醒したのか、ハッと目を見開いた。

「ザマねぇな」
「昨日から頭痛が酷くてな……」
「あ、そう。どうせ誰にも言ってないんでしょ。お前案外バカだよね」
「うるせー…」

 辛そうに手で顔を覆う椎名をよそに、シャツの中に手を入れる。

「何して、」
「んー?」

 胸の辺りをもそもそとしつつ、椎名のズボンのベルトを解いていく。流石に危機感を感じたのか、椎名はズボンを弄る俺の手をガッチリと掴んだ。

「何、しようと、してるんだ?」

 語気を強め問う椎名に、「セックス」と端的に答える。ぎり、と強まる手首の拘束に、俺は僅かに顔をしかめた。上の服に入り込んだ右手を泳がせると、指先が突起をかすめる感覚がした。

「ンぁ、やめ、」
「ハイハイ気持ちいいことしましょーねぃ」

 抵抗する椎名を適当にいなすも、掴まれた手首がどうにも煩わしい。

 めんどくさいな。
 両手を椎名の体から離す。椎名はホッとしたのかあっさりと手首の拘束を解いた。少しくらい警戒しろよ。

 シャツを乱雑に掴み、両方向に引き裂く。シャツは弾け飛び、肌が露わになる。

「っ、」

 椎名の肌は、所々爛れ、傷だらけになっていた。

「何これ」
「……あー…」

 椎名はぐったりと体を横たわらせ、返事をしない。泣いているのかと思われたが、彼は長いため息を一つ落とし、顔を覆ったまま口を開く。

「もうやだ……。お前嫌い……」
「奇遇だねぃ、俺も嫌い。それで? なにこれ?」
「はっは、なんだと思う?」

 余程言いたくないのか、椎名は道化めいた口調で問い返す。だがその声音はひどく硬い。椎名は、俺に引くつもりがないのを悟ったのか、渋々と話しだした。

「……親に、母親にやられた傷だよ」
「は……、桜楠は? 知ってるのか」
「知らねぇよ、もういいだろやめろよ……」

 椎名は気怠げに顔を布団に押し付ける。

「お前、何でテストで手ぇ抜いたの」

 びくり、肩の骨が動く。篭った声が聞こえた。

「……手を抜かないと、円が怒られるから」
「は?」
「あああ……違う、でももう違うのに……違うのか? 本当に?」

 椎名は頭が痛むのか背中を丸め唸り声を上げる。

 ──何が一つだ。校舎裏で話した時のことを思い出す。こんな奴が甘やかされて育ったなんて、どうしたら思えたんだろう。こいつはこんなにも生きるのが下手なのに。

 荒く息を吐き始めた椎名を抱き起す。涙はやはり流れていなかった。

「……名前、呼んで。混乱してきた」
「椎名?」
「…んん、ぅあ、下の、名前」

 呼べってか。セフレに情事中乞われた時にも言った記憶がないのに。甘やかすのは苦手だった。第一、それほど人のことを愛しいとも思えない。しかし何故だろう。反発する心をよそに、言葉は勝手について出た。

「由」
「……もっと」
「由」
「……ん」
「……一緒に死ぬ?」
「やぁだよ」

 どさくさに紛れて誘ってみる。なんとなくうんと言ってもらえる気がしていたんだが。バカにするように椎名は鼻で笑う。下手に笑っているよりそちらの方が余程いいと思った。

「俺、お前のこと嫌いだし。お前と一緒には死ねねーなぁ」
「じゃ、誰となら死ねる訳?」

 問うと椎名は生真面目な顔をして黙りこくる。

「……生きたいのか死にたいのかさえよく分かんねぇのに言えるかよ」

 ちゃんと答えを出すあたり、律儀だ。俺なら言われた瞬間殴る。

「じゃ、死にたくなったら言ってねぃ。俺、お前のこと嫌いだから死にたくなったら心中してやるよ」
「勝手に死ねよ」
「死ぬ時まで一人は寂しいだろ」

 むっつりと言い返すと、椎名は静かにそうかもなと同意した。





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