あの夏の日を忘れない
2
 早すぎた。連絡をもらった時点で午後だったとはいえ、すぐに風紀室に来るとは青だって思っていなかったはずだ。執務室の応接ソファーに寝転がり、目を瞑る。時刻は一時。昼食を食べて間の空いたこの時間帯は眠気に誘われやすい。そんな時に横になどなったら結果はもう見えたものだ。いつ眠ったのか、それすら分からぬまま。すやり、寝息が一つ落ちる。




 何時に集まるのかも相談しておけばよかったと気付いたのは風紀室の扉前に着いてからのこと。まぁ、時間だけはあるのだから来るまで待てばいいか。気楽に構えて中に入る。やはり、まだ赤は来ていないようだ。ソファーに座るかと歩を進めて気付く。応接用のソファーに、さらりとした金の髪。閉じられた瞼から伸びる長い睫毛は、目の下に淡い影を滲ませていた。息をしているか不安になって、手を伸ばす。掌に呼気が触れる。……よかった、大丈夫そうだ。
 足元の空いているスペースに腰をかける。ここ最近顔を合わせていなかったから、この距離感で赤を見るのは随分と久しぶりだ。赤の頬をつつく。小さく唸り身を捩った赤は、眠ったまま俺の指を握った。睡眠を邪魔する感覚があったからそれを掴んだ。それだけだろうと理解しつつも、口元はどうしようもなく緩んでしまう。

 ぼんやりと赤を見つめ、思い出すのは先日の邂逅だ。

***

 畠一秀に連れてこられたのはとある病棟の一室。入口横の壁には『椎名 由衣』と書かれたホワイトボードが吊られている。人の出入りが制限されているため、薄黄色の廊下にすれ違う人影は見当たらない。限られた医者と看護師だけが往来する、いわゆるVIP用の個室にその人はいた。
 テレビを何ともなしに見つめる女性は、感情の薄い表情で俺たちに視線を移す。人形めいた所作に、果たして自分は入室に了解を得ていただろうかと不安になった。大丈夫。確かにノックをして、返事を得た……筈だ。
 赤の母親は、前に立つ畠一秀を見遣り、溜息を吐く。

「連れてきちゃったのね」
「入院記録を見られたものですから」
「嘘、知ってるわ。一秀、あなたは迷ってるの。だからこの少年に選択を委ねたかった。違う?」
「それ、は」

 状況が分からない。少なくとも、これだけははっきりした。入院が赤に隠されているのは、由衣さんの指示によるものだ。
 言い淀む声に由衣さんは眉を垂らす。仕方ないと困ったように受け入れる表情は、時折赤の見せる表情とよく似ていた。いや、赤が似てるのか。点滴のついた腕を重そうに持ち上げ、由衣さんは畠の頭を撫でる。

「大丈夫、怒ってはいないの。私だって迷ってるもの。何が正しいのか。どうするべきなのか」
「……すみません」

 ひと段落ついたのか、二人の視線が俺へと移る。突然場の中心に躍り出たような感覚に、背筋が伸びる。ゆるり、由衣さんの首が傾ぐ。

「そんなに硬くならないで。あなたは円のお友達? ……それとも、由のお友達かしら」

 目を見開く。由? 今この人、由って言った、よな? でも赤の話では、

「死んだ、はずじゃ」

 困惑のままに言葉を漏らした俺は、自分の失言に青くなる。はたと口を押さえるも、飛び出た言葉は覆らない。薄っすらと切なそうに笑うと、由衣さんは「そうね」と短く肯定した。

「私の中で由は亡くした存在だった。あの子はそれも、君に伝えたのね」

 寂しそうにも嬉しそうにも聞こえる声色。その声色こそ、由衣さんが入院を赤に伝えない理由なのだろう。

「伺ってもいいですか」
「ええ、どうぞ」
「なぜ椎名に入院してることを……行方を、知らさないんです」

 予想はできていたのだろう。由衣さんは目立った反応を見せなかった。血色の悪い顔の中、強い輝きを宿した瞳が俺に向けられる。血筋を思わせる所作に息を呑む。

「……あの子を守るため。もう怖い思いをさせたくないの。私に会うことで由が傷つくなら、」

 ――このまま一人で死んだ方がいい。

 本当に、この親子はそっくりなのだ。その瞳のみならず思考までも。何かを守る手段として自己犠牲を当然のごとく視野に入れている。自らが犠牲になっているとも知覚しないまま誰かの未来を見る姿勢は、見ていてもどかしいものだった。

「私、あの子が桜楠に入ったのを機に精神科に通院するようになったの。畠さんが気遣ってくれてね。通院する内、他の病気が発症して、余命の宣告を受けて――、不思議ね。死ぬって言われた瞬間、曖昧になってた記憶が返ってきたのよ。神様が、私を私として弔おうとしてくれるんだわって、そう思った」
「……なぜ俺にそれを?」
「だって、言ったら君も考えてくれるでしょう。由にとって、どの選択が一番優しいのか」

 要するに畠一秀と由衣さんは、俺が赤の過去を知っていると分かったうえでこの話をしているのだ。入院していることを知った赤は、きっと由衣さんに会いにくる。赤自身が望んでも、それが一番いい選択とは限らない。二人は恐れているのだ。自分の選択が赤に傷を作るのではと、恐れている。

 目を伏せ、腹を押さえる。ムカムカとした感覚。ちらり、室内を確認するも、俺と畠一秀、由衣さんの他には誰もいない。

「俺から言えるのは、」

 今から言うのはあくまで俺の考えだ。夏目の家も椎名の家も全て取っ払った、ただただ純粋に椎名由の友人としての俺の言葉。

「それくらい赤に言えっつー話ですよ」

 ばっさり切り捨てた俺に、大人二人はポカンとする。

「畠さん、俺に言いましたよね。『彼は夏目の跡取りだ。自分で考え、選ぶだけの力はある筈』って。じゃあ、赤もそうじゃないですか。何も夏目の跡取りだけが自分で考えている訳じゃない。椎名の跡取りである赤だって自分で考えてる。多分、正式な跡取りじゃない俺よりずっと」
「正式な……?」
「まぁ、それは別にいいんです。つまり俺が言いたいのは、自分の道くらいテメェで決めさせろってことです。事前に整地して歩ませたいってのは親心なんだって分かります。でも、整地したところであいつは自分の決めた道しか進まないです。荒くれた山にさえ、アイツは自分の道を拓く。そういうやつなんだ、椎名由は」

 赤は、兄を逃がした。自分で母親との生活を選択した。満月の晩、一人で家を抜け出した。

「アンタたちは赤を見くびりすぎだ」






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