あの夏の日を忘れない
32
 円の手が俺を導く。前に向いたまま歩き続ける円は、一体どこを目指しているのか。廊下は不自然なほど人がいなかった。いつもであれば部活に向かう生徒や寮に帰る生徒で廊下が賑わう時間だ。俺たちの後ろに続く二村もそのことに気付いているだろうにただただ沈黙を貫いている。夕の柔い日差しが廊下を淡く照らす。繋いだ手の境目がぼんやりと光に滲んだ。

「由」

 円の声が俺を呼ぶ。
「朝、吉衛先輩から教えてもらった。この学園の現状。俺とお前に関する、噂話。全部を」

 息をのむ。円の手が力を強める。隠すなと言われているようだった。もう守られるだけの自分ではないのだという無言の訴えに視線を落とす。俺がもっとうまくやれていたら、今頃はもっと違った話ができていたのだろうか。兄を苦しませることもなく、普通の家族のようにただ笑って過ごすことができていたのだろうか。

「下を向くな」

 振り向くことなく兄は俺を叱咤する。のろのろと顔を上げると、目の前には円の背。
 我が物顔で廊下を歩く円に俺はそっと吐息を零した。懐かしい景色だ。
 あの頃はいつもこうして円の後を追っていた。楽しいことを見つけてくるのは円で、俺はその背に導かれていた。兄は俺の道標だった。由とその声が俺を呼ぶだけで、どんな些細なことも心躍るものに変身した。そうだ、俺はずっとこの背を、この兄を、

「前を向け。自信がなくとも胸を張れ」
「でも、俺、いっぱい間違えて、」
「だから?」

 目的地に着いたらしい。ドア上のプレートには放送室の三文字。円の手が扉を押す。開いた扉を背で押さえ、円が振り向く。視線が交わる。問いに答えることができす眉を垂らすと、円は仕方ないなと苦笑する。甘やかす時の表情だ。くんと俺を引き寄せた円は、繋いだ手を顔の正面にかざし指を絡ませる。

「……電話でも言っただろ。お前は悪くない」

 目を見開く。――ああ。
 吹っ切れる、というのはこういうことを言うのだろう。雑音が消える。照らされる。生きていいのだと、正しいのだと兄が肯定する。ただそれだけで、今までの自分を大切に思える気がした。パチパチと頭の中で何かが弾ける。嬉しくて、幸せで、何気ない言葉一つでこうも救われる自分がおかしくて。唇から笑い声が零れる。同じように笑みを象る兄の口に気分が高揚した。

「――知ってる!」

 俺の答えに円が笑う。強いな、と呟く兄に首を振る。違う、俺が強いんじゃない。円が強いから、円につられて俺も強くなれるんだ。

 小さい頃。俺はずっとこの背を、この兄を、魔法使いだと思っていた。
 円といると不思議なくらい強くなれたから。何にでもなれる気がした。何でもできると思った。子供じみた発想だという自覚はあったから口にはしなかったが、ずっとそう思っていた。

「いい子」

 また、魔法にかかる。子供扱いをするなと拗ねたフリをするけど、多分本心はバレている。だってほら。円の気持ちが伝播する。ふわふわして、温かい。出来立てのパンを抱きしめるような感覚。小さな肯定たった一つに生かされてしまう。やっぱり円は魔法使いだ。それもとびきりの。

「由。約束、覚えてるか」

 話をしよう。俺と由が別れた後の話。これからずっと先の話を。

 魔法はいとも簡単に未来へ連れていく。重ねた手がドアの向こうへと俺を引き込む。

 円と二人で話したい。俺の言葉に二村が頷く。円がしっしと手を払う。わざとらしく溜息をついた二村は、壁に背中をもたれさせる。

「外で待ってる。……こいつを任せた」
「ああ」

 円が頷く。
 二村が横目で俺を見る。安心したように目元が和らぐ。

「よかったな」

 ぱたんと扉がしまった。 






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