あの夏の日を忘れない
14
 切れた電話の画面を見つめ、嘆息する。自分の奥底まで肯定されたかのような、満ち足りた感覚。生きてもいいと言われた気がした。

 嬉しくて、泣きそうで。久しく感じなかった、あの兄と心が繋がっているような心強さ。目を瞑り、上体を壁に預ける。

「あー…、」

 脱力した声が出る。指先一つ動かすだけで充足感が欠け落ちてしまう気がして。身じろぎ一つしないまま、ぼんやりと屋上で眺むれる。

 かちゃ、とドアノブの回る音と共に扉が開かれる。目だけを動かし見ると、入ってきたのは渋い顔をした青だった。

「赤ッ」
「……ん?」

 切羽詰まったような声に反応が遅れる。柔く首を傾げると、青はほっと息を吐く。

「勝手に姿を消すから、連れ去られでもしたのかと……」
「あぁ……、んーん。違う。心配かけたな」

 返事をするとぴたり、青の表情が変わる。

「赤、何かいいことあった?」
「っ、ふふ。うん、あった。すっげぇいいこと」

 青の慧眼ぶりに一瞬目を見開き答える。自然と笑みが零れた。驚いた顔で顎を引いた青は、緩慢な仕草で俺の隣に座る。動きたくない気持ちを汲まれたようで擽ったい。

「赤、よかったなぁ」

 しみじみと呟く声。うんと答えると、じわじわ実感が迫り上がってきた。
「……聞いてくれる?」

 するりと言葉が滑り落ちる。
 
「いいのか」
「誰かに自慢したいんだ。駄目か?」

 まさかと否定した青に口元を緩める。時折言葉を詰まらせながらの話に、青は嬉しそうに相槌を打つ。青が口元をほころばせ頷くものだから、無性に嬉しくて。幸せ、だなぁ。浮き上がる心をそのままに眉が垂れる。

「好きだな……」

 呟くと、変な声を上げた青が俺を見る。ほとんど無意識に出た言葉に大きな反応を返され、少し照れくさい。

「変な気分だ。全部が全部好きみたいな、そんな堪らねぇ気分。……俺、ここに来てよかった」

 言葉を付け足し、目を逸らす。この学園に来なければ、今頃俺は円に複雑な思いを抱えたまま、母さんと二人あの家で鬱々と過ごしていただろう。一秀の運転する車でこの学園に来た日から、いや。青から学園に誘われたあの日から、もしかするとずっと前からか。俺の生活は少しずつ、でも確実に変化していったのだ。空はすっかり闇に溶け始めている。夕から夜へ。空気もすっかり親しんだ涼しげな夜のそれだ。
 
「そりゃ、誘った甲斐があったよ」

 気の抜けた顔でへらりと笑った青は、でもと声のトーンを落とす。

「残念だな」
「何が」
「さっきのだよ。俺のことだったらよかったのに」
「はぁっ?」

 予想もしないことを言われ、肩が跳ねる。ぎょっと見返すと、してやったりといった風の青と目が合った。驚くようなことをわざと言ったのだと気づいてムッとする。

「……意地が悪ぃな」
「だって俺は赤が好きだしさ? 全部が全部軽口って訳でもない」
「そりゃ俺だって嫌いじゃねぇけど」
「な? ほーら両想い」

 ドヤ顔を披露した青は、ふと薄く微笑む。

「本当に、俺のことならよかったのに」
「青、?」
「さ、赤! 風紀室に行くぞ。皆心配して探してんだよ。二村と牧田も慌ててるし神谷もやんやとうるせぇ。心配させた分しっかり叱られてもらうからな」

 ぽつりと落ちた青の呟きを不審に思うも、さらりと躱され言葉を呑む。何かを隠されたのに、それが何か分からない。手を伸ばせば届く距離にいる青が、まるで遠くにいるかのようだった。サァ、と吹いた風に青の背中が扇がれる。行ってしまう。それはなんだか、すごく寂しいことだと感じた。

「、青」
「どした? 行くぞ」
「……好きだよ」

 なかなか動かない俺に青が振り返る。羞恥心を押し殺して口を開く。声は存外頼りない。罪人の懺悔のごとく。普段言葉にしないことを口にする苦しさは、話すというより吐き出すといった行為に似ていた。

「青が何を隠してんのかは分かんねぇけど……。嫌いじゃねぇとか言ったけど、ほんとは違う。っ、好きだ。友達とか、家族だとか。そういう枠に入らない夏目久志って別枠でお前が好き」

 視線は次第に下に落ちる。遠くに行かないでほしい。その一心。

「……これじゃ、近くにいる理由にならねぇかな」

 青はどんな顔をしているだろうか。呆れてる? 怒ってる? それとも、冷めた目で俺を見ていたりするのだろうか。
 なんとなく距離を感じたから。たったそれだけでこんなに揺れるなんて馬鹿げている。馬鹿げているとは分かっていても、仕方ないと諦めるには青から色んなものを与えられすぎていた。

「青、」

 視線を上げ、青の顔を盗み見る。言葉は続かなかった。

「……勘弁して」

 耳まで真っ赤に染めた青が、そこにいた。俺の視線に気付いた青は奥歯を噛みしめ、俺の顔を手で覆う。前が見えない。

「おっまえ実は分かってて俺のこと揶揄ってないか?! 揶揄ってねぇよな知ってっけど! 照れて死ぬわ! あ〜〜〜、もう!」

 ぎゅう、と頭を抱きしめられる。顔を肩口に押さえつけられ、相変わらず前は見えない。

「誰が離れるかよ! 離れねぇって言っただろ! 近くにいる理由?! なくても俺がしつこいくらい寄ってってやるっつーの。まぁだ分かってねぇな、赤?!」

 押しこめていた手を外し、わしゃわしゃと俺の髪をかき混ぜる。乱れた髪を認めると、手は両頬に添えられた。

「好きだって? 知ってるさ。んなこと言って引き留めずとも、俺は赤から、椎名由から離れたりしない!」

 怒濤の勢いで語った青は、押し殺すように口にする。

「言ってるだろ。好きなんだよ……」

 囁くような声音は夜の屋上によく映えた。ぐわんと脳に響く。行くぞと拗ねたような物言いの青に促され、今度こそ屋上を後にする。会話の中で覚醒した筈の意識は、再び彼方へ飛んでいた。もはや右足を動かしているのか、左足を動かしてるのかもはっきりしない。

 青からの好きという言葉は、別に初めてでもなんでもない。そうだ、だからいつも通りありがとうなんて呆れた風に笑って、それで、それで………、?

 いつもと違う気がするなんて気のせいだ。青が、あの青が俺に恋なんてあり得ない。だってそうじゃなきゃ……。ああどうしよう、頭がおかしくなりそうだ。
  





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