あの夏の日を忘れない
12
 円が倒れてから一週間後の金曜日。相変わらず続いている煩わしい視線と嫌がらせには慣れつつあった。周囲はそんな俺を良しとしなかったが、四六時中敵意を向けられていれば順応せざるも得ない訳で。一つ慣れないことがあるとすれば、青や橙、風紀の連中がずっと俺の傍にいることくらいか。誰かが一緒に戦っている。Coloredの喧嘩で慣れたつもりになっていたが、視線などといった不可視の暴力ともなれば、立ち向かう仲間がいるというのはどこか少しの違和感があった。

 中学の頃と重ねているのだろうか。気を張っているというのは同じなのに、それが俺一人でないなんて。不思議な気分だった。

 酔ってしまいそうな奇妙な違和感から抜け出したくて、教室に迎えが来るより早く放課後の屋上を訪れた。以前はあれほど訪れていた屋上だが、この学園のとなると田上先生と天体観測をして以来だ。

 黄昏ているとスマホに着信があった。表示されたのは伯父さんの名前。奇しくもあの日と酷似している状況に苦笑しつつ電話を取る。耳を当てると画面にピアスが当たり、カツと小さく音を立てた。

「はい」
『あ、もしもし』
「ッ、」

 驚いて反射的に通話終了ボタンを押す。

 ……今の声。

 混乱の渦に叩き落とされた俺を待ってくれるはずもなく、再び通話音が鳴り始める。何気ないコール音が耳いっぱいに響いているように感じて、鼓動が高鳴る。ボタンを押すと短い電子音。

「……円?」

 挨拶をすっ飛ばし問いかけると、スマホから円の声が聞こえた。

『おい由。なんで電話切った? ん?』

 責めるような口調は俺の質問に答えない。だが、それだけで十分だった。これは円だ。

「……円だと思ったらつい」
『ほぉ? 俺だから切ったと。こんにゃろ』

 拗ねた返事にしまったと気付く。もう少しうまい言い訳があっただろうに、言うに事欠いて一番の下手を打ってしまった。

 ああもう。円のことになると何一つうまくいかない。

「……、まどか」
『ん?』
「ごめん」

 もっと言いたいことも、言うべきこともあるはずだった。それでも出てきた言葉はそんなどうしようもないほど下らないもので。だって、謝ったところでどうなる? どうにもならない程全て壊れた後なのに。

『何についての謝罪だ?』

 凪いだ問いかけに、ぐっと言葉が詰まる。夕陽ののぞいていた屋上は、いつのまにかオレンジの彩りを失っていた。ひゅお、と撫でる風が肌寒い。自分の罪を口に出すのは思いの外体力の要る作業だった。

「……怪我に気付かなかったこと。表情を失わせたこと。ぃ、えから追い出したこと。嘘、ばっか……吐いたこと……と、母さんを……っ」
『由、』
「にぃ、ごめ……っ! 母さん、もう笑ってくれなくなっちゃった……!」
『由ッ!』

 ごめんと謝罪を繰り返すと、電話からやけに必死な声が聞こえてくる。まるで俺を繋ぎ止めようとしているかのような声色に、思わず息を呑んだ。

『由。まず一つ一つ言っていく。怪我に気付かなかった? 気付いただろ。あれだけ俺が隠してたのに暴いたんだから上々。違うか?』
「ちがく、ない」
『そうだろ。じゃ、次。表情を失わせた? 馬鹿言え。お前のせいじゃなくて俺が逃げたくて記憶消し去ってついでに表情とやらも消しただけ。カーソルの範囲選択間違えたのかってな。要は逃げた俺のせい。オーケー?』
「……違うだろ」
『ちがくありませーん。余計なもんまで背負い込むな。俺の表情は俺のせい。人のもんまで背負い込むから何も見えなくなるんだよ愚弟めが。次』

 サクサクと切っていく円は、記憶を取り戻したのだとはっきり分かるほどあっけらかんとしている。さり気なく弟扱いする様はすっかりと以前のものだ。

『家を追い出した? 言い方には気を付けろ。家から逃したんだろ。次、嘘ばっか吐いたこと、だったか? お前が嘘つきなのは前からだろうに。大体、お前の嘘を唯一見抜けてた俺が気付かなかったんだ。いつも通りお前が嘘を吐いて、誰もそれに気付かなかった。それだけの話だ。そうだろ?』
「そうだ、けど」
『ったく。気にしぃなのに嘘つくから面倒くさいことになんだよ。嘘ついたなら何も気にせず堂々としてりゃいんだ。騙される方が間抜け、特に俺。次!』

 どこの詐欺師だとツッコみたくなる理論を展開した円は、あっさりと自身をこきおろす。

『母さんを、か。お前忘れてないか?』
「忘れ……?」
『ああ』

 そんな馬鹿な、と問い返すと円は軽い口調で断定する。緊張で電話を持つ手が汗ばむ。戸惑う俺を気にもせず、円は続きを口にする。

『母さんは、父さんが死んでから笑ったことなんかねぇよ。お前のせいだぁ? 何をしたのか大体のあらましを聞いてはいるが、そんなことするよりずっと前からあの人は笑ってなかった。それが事実だ』
「でもッ」
『でももクソもありゃしないっての。勘違いするな馬鹿』

 呆れた口調の円は、その声色をがらりと優しいものへ変える。

『お前は悪くないよ』

 ひゅ、と肺から息が漏れる。赦されるなんて、端から思っていなかった。もしかしたら、母さんは俺の名前を呼んでくれるかもしれない。笑って、頭を撫でて、抱きしめて……。そんな馬鹿な考えで母さんを手元に繋ぎ止めた。母さんが壊れ行く姿を見ていた。ずっとずっと、ただ見ていた。

 俺の名前を呼ばないのも、振るわれる暴力も相応しい物だと思っていた。母さんのことを見るたび、自分の罪をまざまざと思い知らされるようで。いっそ裁かれたいとさえ、思っていた。その筈だった。

「……変だなぁ」

 赦されたいなんて思ってなかった筈なのに。他でもない兄に悪くないと断じられることがこんなにも嬉しい。いや、嬉しいという表現は些か語弊があるかもしれない。これはそんなものじゃない。一つの区切りを打たれたような、そんな感覚だ。

 一人で生きているつもりはなかった。畠もいるし、Coloredの仲間も、学園の友人もいる。椎名グループだって、多少なりとも俺が必要だ。一人だなんて思っていなかった。人に頼って生きているつもりだった。それなのに。

 まるで、円のいなくなった時から続く独りぼっちが終わりを迎えたかのような。視界が開けたとでも言い表せようか。ただの一言? それでも。

「ばっかみてぇに救われちゃってさ……」

 単純なと笑うと、円は俺と似た笑みを電波に乗せる。

『なんだ今更。お前はずっと単純だったろ。ひねていそうで真っ直ぐで、単純。肝心な時に嘘ばっか吐くくせに、一人で後悔してる。賢くて、おっとりしてて。小馬鹿にされても気にもしないで。それでいて、ふとした時に思い出して落ち込んでる』
「……んだよ」

 つらつらと並び立てられる自分の特徴に居たたまれない気持ちになる。この歳になってそんなことを改めて言われる気恥ずかしさを、この兄は分かっているのだろうか。分かっていて言っているなら性格が悪いし、分からず言っているならタチが悪い。
 俺の困っていることを察しているだろうに、兄の性格分析はまだまだ続く。

『斜に構えながらも人を傷つけるのを怖がって、へらへら笑って。そのくせ負けず嫌いで俺にばっか強く出る内弁慶。頑固で自分の限界を見極めるのが下手くそで、熱があっても気付かずに無茶して悪化させて。……よく、一人で頑張ったな』
「……兄貴面してんじゃねーよ」
『兄貴が兄貴面せずに誰がするんだよ』
「一秀とか」
『……カズはお前の兄貴じゃねぇっつーの』

 不満げな円に思わず笑う。なんだ、全然変わってない。編入当初は遠く感じた兄が、こんなにも近い。

『大体お前はチビの頃からカズに懐きすぎ。何、カズにいって。いっつの間にかにいちゃん呼びやめちゃうし。言ってみ、にいちゃんって』
「……ばっかじゃねぇの。呼ぶかよ。高二だぞ。第一、円って呼んだらそれはそれで喜んでただろ」
『かわいい弟が偉そうに呼び捨てしはじめたら微笑ましいに決まってるだろうが』

 そんなこと思って笑ってたのかよ。

 知りたくもなかった実情に絶句する。

「そ、れよかお前もう大丈夫なのかよ。ぶっ倒れてただろ」
『んー? ああ、平気だけど。学園にもそろそろ戻るし? 検査やらが立て込んでるから二週間後ってとこか。文化祭までには戻れる予定』

 それよりか、と円は語気を強くする。

『由。俺は怒ってんだけど』
「……何に」
『見当付いてるくせに往生際が悪い。俺、別れる時に助けを求めろって言わなかったっけ?』
「……困ったら俺が助けるとは言ってたけど助けを求めろとはいってない」
『あ?』

 一瞬柄の悪い声が覗き、身を縮める。だって、と言い訳がましい声が漏れた。

「円は怖がってたし、背向けてどっか行っちゃうし……! 俺、助けてってずっと思ってたのに……ッ!」
『、』
「分かってくれなかったのは、兄ちゃんだろッ」

 呼ばないと言ったばかりの呼称が口を突く。言い訳は徐々に勢いを増し、言うつもりのなかった事柄さえもぶちまけた。子供の八つ当たりじみた、無茶苦茶な理論。はっと息を呑んだ兄は、ああと低く唸る。

『うん……、ごめん』
「――ぁ、」
『ごめんな、由』

 謝らせてしまったと我に返る。こんなこと、言うつもりじゃなかった。謝る兄の声は大人びている。頭を撫でるかのような優しさを孕んだそれに呑まれ、謝り損ねる。ああ、やっぱりこの兄相手だと何一つとて上手く運ばない。

 ――赤は面倒見のいい大人に弱い、と。やー、大発見だね!

 いつかの桃の言葉を思い出す。由、と柔い声が耳朶を撫でた。
 うん……、そっか。

『由、話をしよう。お前と俺が別れた、その後の話。これからずっと先の話を』
「しょうが、ないなぁ」

 桃に会ったら訂正しなくては。他でもない。俺は、この兄に弱いのだ。





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