あの夏の日を忘れない
9
 中学の頃、谷口が言っていた。イケメンを見るたび、きっと彼女を情事に誘うの下手なんだろうなって思うようにしていると。なんでもあの顔面でスマートに誘うとしたらすっげー腹が立つのだとか。

 そもそも、下手な誘い方とはなんなのか。素朴な疑問は飲み込んでおく。ちゃらんぽらんな椎名くんのキャラに沿わない。じゃあどんなのが上手い誘い方だと思うわけ、と揶揄うように冗談めかして聞くと、そうだなぁと谷口は言った。

「赤、そろそろご飯食べない? 俺の家は帰れないからホテルになっちゃうんだけどさ。赤の家も……まずいでしょ」

 映画観られるとこがあるんだよ。

 どう? と尋ねる橙に頷く。思えば仕事関係でしか映画を観たことがない。娯楽目的の映画鑑賞は初めてだった。橙の取ってくれたおにぎりくんをカバンに入れ、目的地へと歩む。その場所の正体に気が付いたのは、部屋明かりの妖しさが目に入った時だった。ぎくりとして思い出す。そういや谷口、橙と同じような台詞を言ってたなぁと。

「ホテルだ」

 改めて呟いた俺に、橙はふっと微笑む。ちょっとエッチなね、とよからぬ事を付け足す橙は底意地が悪いと思う。むっと口を尖らせるとクツクツと橙にしては珍しい喉を鳴らすような笑い声。楽しんでやがる、クソ。

 一通り笑い終わった橙は俺を自然と部屋の中に誘導しながら、それにしてもと口を開く。

「赤がラブホテルを知ってるのは意外だったな」
「お前、どれだけ俺が性に疎いと思ってんだよ」
「かなり?」

 かなり。しれっと言われた発言に押し黙る。橙は俺の反応に微苦笑するも、発言を訂正する気がないらしい。部屋の最奥、ベッドの枕元のダイヤルを弄って部屋を健全な明るさにするとテレビをつける。

「ほら赤。映画観ながらご飯食べよ?」

 ね、と隣を叩く橙に微妙な敗北感を抱くも腹は正直だ。くぅと空腹を訴える音に促され、俺は橙へと歩み寄った。

***

 ルームサービスで夕飯を頼み、映画を観る。十分後、メールだとスマホを弄っていた橙がベッドから立ち上がる。

「ご飯、来たみたいだね。……赤、どうする? 映画そのまま観る?」
「? ん、ああ」
「そっか。じゃあご飯受け取ってくるね」

 部屋の入り口へと向かう背中に内心首を傾げる。おかしな質問だと思った。一見どっちが受け取りに行くかという言葉に聞こえるが、そこには少しの違和感が残る。

 違和感の正体は、映画の続きを観ることで判明した。主人公の兄が途中から出てくるのだが絶妙な鈍さで主人公を追い込んでいったのだ。そこがメインの話ではなかったのだが、メールと偽り先の展開を調べた橙は俺にそれを見せたくなくなったのだろう。
 食べ終わった皿をテーブルに押しのけ、ベッドへと身を転がす。後ろにごろりと寝転がる俺に、橙は心配そうな眼差しを向ける。ひらりと手を振り心配は無用だと伝える。実際、気持ちは微塵も落ち込んでいなかった。ただなんとなく寝転びたくなった。ただそれだけ。

「平気なのになぁ」

 寝返りを打つ。背中を丸めると、橙の手が優しく頭をかき混ぜた。

「赤が平気でも平気じゃなくても、勝手に心配しちゃうのが俺だからさ」

 平気そうだと悟ったのか、橙の声音は心持ち明るくなる。そういえばさ、と話の矛先を逸らすと、背中の方で橙の笑い声が聞こえる。

「うん、なぁに?」

 笑いを含んだ相槌で、後ろを密かに振り返る。ぎしりとベッドを軋ませる骨張った手に、どきりと心臓が跳ねた。

「なんでわざわざ泊まるとこをラブホテルにしたんだ?」

 一定の距離を保ったまま横になった橙は視線を俺から外し天井を見る。つけたままの映画がクライマックスを迎えているのか、挿入歌に盛り上がりが増す。橙は何かを考え込むように沈黙を保つ。俺もそれを遮ることなく黙って見守る。映画と俺達。静と騒、対極な二つはまるで別の空間の出来事のように隔てられていた。

「秘密」

 一瞬、何がだろうと考え思い至る。先程の問いの答えだ。寝返りを打ち橙の方へと向き直るも、手が伸び目元を覆い隠される。

「かっこ悪いこと考えてるからこっち見ないで」

 苦しそうな、落ち込んでるような。

 橙から出たとは到底思えない、沈んだ声。

「橙……?」
「ごめん、心配させてるね。ちょっと弱気になっただけだから……大丈夫」

 自分に言い聞かせるような口ぶり。視界を覆われたまま手を伸ばす。彷徨わせた手は、思い通り橙の頬をするりと撫でる。

「大丈夫でも大丈夫じゃなくても、心配くらいさせろ」

 期せずして橙と同じような台詞を吐く。目元を押さえる手がぴくりと震えた。はは、と詰まるような小さな笑い声。

「好きだ、なぁ」

 返事を求めない、掠れ気味の囁き。頬の手を頭に滑らせ、ぽんぽんと触れる。暫くすると、塞がれた視界の先から寝息が聞こえはじめた。どうやら寝てしまったらしい。いつの間にやらバラエティを映していたテレビの電源を落とし、目を閉じる。眠気はすぐに訪れた。

「おやすみ」

 明日起きて、昼には学園に戻る。だから今だけ。今だけはせめて。

 この眠りが穏やかでありますように。
 





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