あの夏の日を忘れない
7
 どうしよう。
 木陰で俺は校門を見つめていた。視線の先の橙は楽しげに笑みを浮かべている。時折寮の方向に顔を向けるものの、時計を気にする素振りはない。……さて。

 頬杖を付き、眼下の校門から視線を外す。眼下というのは他でもない。約束の午後四時現在。俺は校門の横の木の上にいた。

 理由は至極簡単。円の親衛隊と鉢合わせかけたからだ。遭遇したとて負けるとは思わないが、今会って碌な事にならないのは目に見えている。木に登り遭遇を回避した俺だったが、そこに橙が現れ……現在に至る。俺だって初めはさっさと姿を現すつもりだった、が。橙のそわそわとした様子や独り言を聞いている内にタイミングを完全に見失ってしまった、という訳である。

「赤、どこに行きたいかな」

 ああ、もう。
 いい加減橙を待たす訳にもいかないと、木の上から飛び降りる。わ、と声を上げながら橙は両手を広げ、俺を抱き留める。まさか受け止めてくれるとは思わず、まじまじと橙を見つめる。

「なんだ、」

 橙はふわりと笑みを浮かべる。

「天使かと思ったら、赤かぁ」

 抱きしめた俺の肩口に顔を埋め、俺を地面に下ろす。まさかそんなに大事に扱われるとは。戸惑いを隠せない。

「……待た、せた」

 口にして、橙と集合の約束を交わしたのはこれが初めてだと気付く。Coloredでは各々ビードロに足を運ぶのが殆どだったし、何より橙は出会ってからずっと俺の傍にいてくれる存在だった。約束をしなくとも傍にいてくれると。無意識にそう思っている自分に気付き、動揺する。

「赤?」

 不思議そうな橙の問い。答えられるか。当然のように俺の未来に他人が存在する。そんなこと、人に知られたくない。

「赤、具合でも悪い? 別の日にしようか」

 何と言えば良いか分からず、黙ったまま首を振る。とても言葉にできない。恥ずかしい。自分の見たくない所を突きつけられたかのような耐えがたさだ。今朝、三浦達に気遣われ、ダメになりそうなんて軽口を叩いたが、冗談じゃない。

 ……もう、ダメになってるじゃないか。

「橙……、」

 自覚した途端、恐怖を感じる。
 約束をしなくともビードロに足を運んだのは、そこに仲間がいると思ったからだ。自分の居場所がそこにあると知っていたから。

 傍にいてくれる。離れる訳がない。

 そんなことを思うなんて、いつからこんな甘ったれになったんだ。こんなんじゃもう一人に戻れない。

「どうしよう。俺、」
「……うん」

 語尾が甘い。促すような響きを纏った声は、根気強く言葉の続きを待っている。促されるまま、あらぬことを口走りかけた自分を自覚し、軽く唇を食む。

「あぁか」

 甘やかすような口調。誘われるように口元の力が抜ける。

「何を考えてるの?」

 手を取り、校門を出る。ここから駅まで徒歩である。山奥で、下山の手段はヘリか自家用車の生徒ばかり。となればバスが通っている筈もない。バイクがあれば便利だが、俺は免許を持っていないし、橙もつい先月免許を取ったところ。二人乗りは無理だ。

 楽しげな足取りで歩を進める。何でもない山道が特別みたいに。木の葉の隙間から日が差し込む。水彩絵の具のように滲む影は、日だまりに似た温度を持っていた。影さえも温かく、心地よい。
 何気ない特別に、ほろりと言葉を零す。

「一人じゃねぇなって」

 薄らと目を瞠った橙はしかし、嬉しそうに頬を緩める。

「……うん。うん、そうだよ。一人になんて、させてあげないから。嫌がったって、絶対」

 絶対、というところで橙は手に力を込めた。励ますような物言いに、ふと記憶が蘇る。

 赤がそれを望んでも、俺は。
 ……離れてやることが、できない。
 言っただろ? 離れてやれないって。

「ッ?!」

 びくりと肩を震わせる。橙の握る手から視線を上げる。彷徨わせた眼差しは橙と山道以外を捉えなかった。それでも、なぜだろう。

 胸に手を当てる。何か感じるような。
 ここにいない。いる筈がない。分かっているのに。

「傍にいる気がするなんて、変なの」

 ここにいるのは間違いなく橙だ。それなのに、不思議だな。
 一瞬、青がここにいる気がした。
 





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