あの夏の日を忘れない
61
 中学三年、三月。一般の高校受験を明日に控えた教室は、そわそわとしていて落ち着きがない。二年生ではクラスの離れた甲斐だったが何の因果か三年でまた同じクラスになった。甲斐が嫌いだと散々アピールし続けたお陰で、無理に俺達を引き合わせようとする人物もいない。

「椎名、ここ教えて」
「あ〜、そこは……ここ。教科書のこのページを読んだら分かりやすいんだけど」
「うん」
「問題文の初めに、この図形の条件が書かれてるってのは分かる?」
「うん、そこは分かる」

 教科書を指し示しながら谷口に説明をする。なるほど、と最終的に理解を示した谷口は、それにしてもと苦笑する。

「椎名がこんなに勉強できるとは思わなかったなぁ。ファーストコンタクトをした頃の自分に教えてあげたい。そいつ、すげぇ頭良いぞって」
「え〜。んなことしたらあの頃の谷口、構ってくれないかもしれないじゃん」
「か〜! モテ男はこれだから! 俺を口説いてどうすんの!」
「へっへっへ。どうしてやろうか」
「んもう、変態さん!」

 体をくねらせる谷口に笑みを零す。口元を緩めるなり腹の痙攣する感覚を覚えた。

「っ、ごめん」
「椎名ッ?」

 呼びかけに応える余裕もなく、口元を押さえてトイレへ駆け込む。

「ッ、うぇぇぇぇぇ、はッ……は……!」

 水音が洗面台の陶器を叩く。口の中のものを吐き、顔を上げると真っ青な自分と目が合った。

「……はっ、」

 冷や汗が額に浮かぶ。最近ふとした瞬間に吐いてしまうようになった。お陰で食べるのも煩わしく、めっきり体重が減っている。

 廊下の流し場で口を濯ぐ。未だ顔からは血の気が引いている。

「……、クソ」

 額に付いた前髪を掻き上げる。このまま教室に戻っては体調が悪いとバレてしまう。溜息を吐き、屋上へと足を運ぶ。あそこへ行くのは随分と久しぶりだった。

 きぃと鉄の扉を開ける。冬の風は冷たく俺の肌を刺す。屋上の壁に背を預け、しゃがみ込む。

「……だいじょうぶ」

 ぽつり、言い聞かせるように呟く。頼りない声は我ながら弱々しいものに聞こえた。俯いていると、ポケットの中でスマホが振動する。画面には、椎名の遠戚の名前。通話ボタンを押し、応答する。

「はい」
『あぁ由くん今いいかい』
「はい、大丈夫ですよ」
『ちょっと問題が起きてね』

 問題の内容を聞き終え、通話を終了する。脱力すると、もたれ込んだ背中がずり落ちる。

「潮時か」

 問題、とやらは予想できた出来事だった。畠の再審の申し入れで、俺の保護者は裁判中だったのだが、その裁判で椎名が負けそうなのだという。一度椎名が勝った裁判だったため畠には相当厳しい勝負だったはずだが、どうやら桜楠の資金援助があったらしい。

 負けそう、と言うのを見るに、じきに裁判の結果が出るということだろう。いつだってあの人達は報告が遅い。椎名グループの経営だって碌にできないあの人達を操るのはなかなか骨が折れたものだ。なんだって、報告が周回遅れで届くのだから。

 溜息を吐き、スマホを手に取る。桜楠円の三文字に手が止まる。通話ボタンを押そうとし、止める。あの背中を向けられた瞬間が、未だに心の中で燻っている。

「俺は、お前に助けてほしかった……ッ」

 くしゃり、髪を握る。全てを忘れ、何も知らされることないまま蚊帳の外。そんな兄がどう助けられるというのだ。自分の思い通りに事を運びながら矛盾した願いを吐くなんて。自己嫌悪が胸に滲んだ。

 連絡帳から桜楠の叔父さんの名前を見つけ、電話をかける。数回のコール音の後、叔父さんの声が応える。

『はい』
「叔父さん?」
『うん、由くん。何かあった?』

 資金援助、ということは事情もある程度把握しているのだろう。心配そうな声色にううんと否定する。

「大丈夫、何もないよ。ただ……、円はどうしてるのかなって」

 俯いたまま話してるものだから、声は酷くこもっているだろう。それでも顔は上げなかった。前を向いて話すことが、今の俺には難しかったから。

『円なら元気だよ。去年、生徒会にも選出されてね。頑張ってるけど……必死すぎて、それだけが心配かな』
「そ、っか。叔父さんには、笑ってる? ……ちゃんと、幸せかな」
『……笑ってる。幸せ、だと思うよ』

 叔父さんの声に、訝しげな色が滲む。は、と息を吐く。嗚咽にも似た吐息に、泣いてるみたいな声だなと思った。ぽたり、滴が地面を濡らす。

 雨かと思われたそれは、自分の瞳からこぼれ落ちていて。みたいではなく本当に泣いているのだと気付いて、ふと笑みを浮かべる。馬鹿みてぇ。

「そ……っかぁ。幸せかぁ。よかった、本当に……ッ」

 ありがとうと言い、電話を切る。これ以上はまともに言葉にできそうにない。ふらりと立ち上がり、フェンスの方へと近寄る。スマホをぎゅうと胸に抱き、涙を落とす。顔を上げ、フェンスの向こう側を見る。あの山の奥に、円の通う学園はあるのだろうか。

「一緒に、いきたかったなぁ」

 自然と笑みが浮かんだ。大好きで、大嫌いな、俺の兄。一緒に不幸になってほしいと願いながらも涙が止まらない俺は、結局あいつが好きなのだ。俺の内心がこんなにも複雑で矛盾しているなんて、あの兄は一生知ることもないだろうが。

 きぃ。
 屋上のドアが開く。振り返ると、甲斐ははっと息を呑んだ。

「……なに、その顔」

 ぽつり、甲斐が言う。ふわり、笑うと甲斐はますます動揺の表情を見せる。

「いいことが、あったから」
「……ッ、」

 甲斐は奥歯を噛みしめ、目つきを険しくする。

「なんでッ、」

 言葉の続きは聞こえなかった。

「それより、何しに来た? 用があったんだろ」
「……卒業式の練習するらしいから、探しに来た」

 ふーんと気のない返事をし、ドアへと向かう。すれ違いざま、甲斐の手が俺の首へと伸びる。慌ててその手を捻り上げた俺は、思わず顔を顰めた。

「危ねぇな」
「殺そうとしたんだから当たり前じゃん」
「……、きも」

 吐き捨て、屋上を後にする。
 甲斐が何を思ったのか。俺には微塵も分からなかった。

***

「結局、その日の昼に裁判の決着がついて、放課後には畠が家にやってきた。ここからは修二も知ってると思う」

 五人は、俯いたまま黙り込む。そんな反応をされるとどうしたらいいか困ってしまうのだが。どうしたものかと考えながら、俺は続きを口にする。

「高校は、近くの公立高校……千頭だな。それに通った。といっても、実際はほとんど行けてないな。数年ぶりの畠に俺は敵対心剥き出しで、母さんから離れようとしなかったから。連絡取れない時期があっただろう? 強制的に母さんと距離を置かせるため、イギリスに行かされてたんだ。一応対外的には留学ってことになってるけど」

 あの頃の精神状態は本当に酷かった。荒れに荒れた俺に同類意識を抱いたジョエルが絡んできたりと、面倒なことも体験した。が、そこは割愛してもいいだろう。

「畠が裁判終了後すぐに動いたのは、叔父さんからの連絡が理由だって後から聞いた。俺の電話が、不穏なものに聞こえたらしい。俺が、死ぬんじゃないかって」

 実際、あの時は死んでもいいと思った。もし甲斐が俺を呼びに来なかったら、何を考えることもせずに飛び降りていたかもしれない。そうする自分の姿は容易に想像できた。

「イギリスから帰って、一先ず青に連絡を入れた。青の方には、畠が連絡を寄越してた……って聞いてる。青も青で、俺の家が変な事になってるって察してたんだろう。学園に誘われた。それを畠に話した。畠は、俺を家から離したいって思ったんだろうな。青の学園への誘いに乗った」

 ふと笑い、足を組み直す。

「――それで、俺は桜楠学園に通う事になった」

 暫く、沈黙が続いた。沈黙を破ったのは、桃の声だった。

「なんで、まだお母さんに会いたいの……っ? 会わなくてもいいじゃん。赤、もう、幸せになってよ。それじゃ、ダメなの?!」
「ダメだ」

 悲鳴のような声に答える。桃の表情は、傷ついたように怯む。揺れる瞳に応えるべく、俺は口を開く。

「……虐待されて、それでも親を慕い続けてる奴がまともな訳ないんだよ。お前達は俺をまともだと思ってたんだろうけどッ! 俺はッ! お前達と会うよりずっと前からッ!! ぶっ壊れてるんだよッ!!! 分かれよッッ! 俺はっ、俺は……ッ!!!!」

 冷静に言うつもりの言葉は、次第に熱が籠もり慟哭のように変化する。椅子を蹴倒し立ち上がる。叫ぶ俺の背を、誰かがぎゅっと抱きしめた。

「っ、なに、してんの……」

 戸惑う俺を置き去りに、青は更に抱きしめる。引き留めるようなその抱擁に、言葉が詰まった。

「……赤」
「な、に」
「……話してくれて、ありがとう」
「ッ」

 視線が、下に落ちる。肩からゆるりと力が抜けた。

「ば、かじゃねぇの」
「あぁ! 俺はお前に会った時からずっとネジが外れてるからな」
「……俺に構うなんて、ほんと、お前らバカだよ。人生損してる」

 目元が熱くなる。袖で拭っても、次から次へと零れ出る。袖の色が変わる。

「……赤」

 橙が、俺の頬を両手で挟む。こつんと額を合わせ、橙は微笑む。

「絶対、助ける」
「……、ん」
「俺を頼ってくれてありがとう。好きだよ」

 さらりと告白する橙に苦笑する。返事をしようとする俺の口を、橙は手で覆い隠した。

「今は言わないで。赤が俺に誠実であろうとしてくれてるのは嬉しい。けど、ほら。助ける前に振られるのはカッコつかないでしょ? 返事は、赤が恋愛感情を理解してからでいいから」

 だから、今はカッコつけさせてよ。

 ね、と笑う橙。釣られて笑った俺は、涙を拭い頷く。

「ほんと、バカばっかだよ。お前ら」

 光栄なことだね。
 微笑む一同は、「さて」という青の一声に表情を変える。

「取りあえず、甲斐とかいう奴は殺す」
「おーけい」
「異論なし」
「Coloredの他の面々にも声かけとくねー。赤、色んな奴拾っちゃったから結構な人数に狙われることになるんじゃない?」
「誰を敵に回したか分からせてやらなくちゃね」

 青筋を浮かべ、ごきごきと首を鳴らす五人から目を逸らす。相手は甲斐のクソ野郎だし、止めるつもりは毛頭ない。ないけども。

 多少内容は伏せるべきだったかなぁ。
 憤る五人にほんの少しだけそう思った。
 





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