あの夏の日を忘れない
59
 家に帰り、服を着替える。シャツは複数枚購入しているから明日着る分は特に問題ないだろう。カバンに教科書とノート類を詰め込み、玄関に向かう。しゃがんで靴を履いていると、後ろから廊下を踏む音が聞こえた。振り向くより早く、襟元を掴み引き倒される。

「ッ――」
「円。なんでこんな時間にいるの」

 母さんの冷たい目が上から見下ろす。両側につかれた手を見て、ああと俺は思う。

 やっぱりこの体勢は嫌いだ。

***

 ビードロのドアを押し開くとカウンターでコーヒーを入れていた渋川さんが顔を上げる。

「あら? 今日は早いのね」
「……勉強しようと思って」

 奥のテーブルを陣取り、教科書を広げる。甲斐から離れるべく、距離を取っていた同級生達に交ざろうと思った。現状、教師陣の俺に対する印象は最悪だ。授業に出るにしても、多少は自習をする必要があるだろう。

 教科書を捲る。

「その速さ、読めてるの?」
「ん、大丈夫」

 パラ、と最後のページを捲り終える。教科書をテーブルに置くと、渋川さんは分かる? と小さく尋ねる。

「取りあえず、数学はね。他の教科は今から」

 見た限り文法の決まりは分かったから、あとは単語を押さえて問題集で確認していけばいいだろう。

「……そう。ところで首の痣はどうしたの」

 渋川さんの手が伸びる。気付いた瞬間、叩き落としていた。

「ぁ、」
「……、ごめんなさいね。驚かせちゃった。だからそんな顔しないの」

 そんな顔? そんな顔ってどんな顔だ。ゆるゆると顔を上げると、渋川さんはにこりと微笑む。

「あなたはいい子よ。いい子で、優しい子」

 触ってい? と短く問われ、頷く。渋川さんの手が髪を梳かす。落ち着かないけど、不思議と気持ちが良かった。

 ぽたり、教科書が濡れる。

「……?」

 頬に何かが伝う感触。手を伸ばすと、指先が濡れた。

「涙……?」

 なんで涙が。何も嫌な事などないはずなのに。涙の理由が分からず困惑する。俺の内心とは裏腹に、頬を伝う涙は止まらない。喉が熱くなる。嗚咽が漏れそうになるのを堪えると、子犬のような声が出た。

「〜〜ッ、ぅ」

 ボタボタと、涙が溢れて止まらない。

「……首。怖かったわね」

 宥めるように頭を撫でられ、こくりと頷く。そうだ、怖かった。意味の分からないことを一方的に告げられて組み敷かれるのは、身が震える程恐ろしかった。死ぬかと、思った。

「あなたはいい子。人を心配することのできる、優しい子よ」

 からん、と店のベルが鳴る。客が来たらしい。いらっしゃいと言った渋川さんは、「なんだアンタだったの」と呟く。

「俺じゃ悪いかよ」

 色のない声で呟いた客は、あれと声を弾ませる。

「椎名だ! えッ!? なんで椎名!?」

 明るい声色に、夏目だと気付く。振り返ると、夏目は俺の顔に声のトーンを落とす。

「……どうした」

 近くに来た夏目は、俺の首に気づき視線を険しくする。

「……なんでもねぇよ」

 そっぽを向くと、口を割らせるのを諦めたのか黙って俺の隣の席に座る。

「椎名さぁ、巷で赤狼って呼ばれてるらしいぜ」
「赤狼?」

 この間の男が広めたのだろうか。ぐいと涙を拭う。鼻がぐずってはいたが、涙はもう止まっている。

「椎名、俺達とチームを組まないか」
「……なんで俺が」

 突拍子のない話に眉を顰める。

「俺さ、この間椎名が探しに来てくれた時、すげー嬉しかった。椎名は俺達に興味ないと思ってたから。一緒に喧嘩できたのも嬉しくてさ」

 ずっとできたら良いなって思ったんだ。

 照れたように笑う夏目は、「赤」と呟く。

「……赤?」
「そ。椎名のこと。ヒーローみたいでぴったりだなって思うんだけど。どう?」
「は? ヒーロー?」
「赤狼って呼ばれてるらしいし? あれなかなかぴったりだよな」

 楽しげな夏目に、少し呆れる。

「……なんだ? 仮にチームを組んで一緒に喧嘩するとしたらお前は青狼とでも名乗るのか、青?」

 だっせぇ。
 思いながら口角を緩める。嫌がるだろうという想像に反し、夏目は表情を明るくする。

「青ッ? 赤に対しての青なら相棒ってことか?!」
「ッ? は、ぇ……あ、あぁ。そうかもな?」

 勢いに飲まれて曖昧に肯定する。仮に、の話なんだが。おかしいな。はしゃいだ夏目は、あの二人は? と色を尋ねる。

「……あのチビはピンク。モヒカンは緑」
「羽場(はば)はピンクで林は緑か。桃と緑だな」
「あの二人、そんな名前なのか……」
「そうだぞ、羽場倫之(ともゆき)と林史則(ふみのり)。ちなみにだが、椎名が俺らを探しにきてくれた日はあの迷子二人を隣町まで迎えに行ってた」

 ご苦労なことだ。

「夏目は……、」

 聞きかけて止める。夏目は気になったのか、首を傾げ続きを促した。

「……ここら辺の中学なのかって、聞こうとした」

 踏み込みかけてやめた。自分らしからぬ態度に戸惑ったからだ。

「いんや? 言ってなかったっけ。俺、桜楠学園に通ってんだ。だから桜楠って、赤の兄貴だよな。桜楠を知ってるから初め見た時、驚いた」

 似てるって?

 予想される続きに、顔を顰める。
 
 ――俺は円とは違う!

 心の中で咆哮を上げた。俺の内心に気付くことなく、夏目はいつもの調子で続きを口にする。

「全然似てねぇなって」
「……は?」

 思わず、素っ頓狂な声が出た。ぽかん、と呆気に取られる。何言ってんだこいつ。俺の表情に、夏目はくすりと笑みを零す。

「なんでそんな驚いてんだよ。だって似てねぇじゃん。そりゃ、顔の作りは似てるけどさ。表情の作り方とか、性格とか? 桜楠なら間違いなく俺達がぶっ倒れてても助けになんて来ないし、俺達を探しにも来ないね」
「そんなこと、」

 否定しかけて口を噤む。昔の円ならいざ知らず、今の円なら夏目の方が詳しい。

「……円は、すげぇ優しいし、頼りになる兄貴だよ」

 それでも、言われっぱなしにしておくのが悔しくて。ぽつりと反論する俺に、夏目はごめんと微笑んだ。

「そうだよな。兄貴を悪く言われたら嫌だよな。わりぃ」
「……そんなんじゃねぇし」
「はいはい」

 揶揄うような夏目の言い方に、ムッと口を尖らせる。違うと言っているのに底意地が悪い。

「でさ、赤。やっぱ一緒にチーム組もうぜ」
「何でだよ」

 いつの間にやらすっかりと赤呼びにシフトしてるし。話の持って行き方が強引な奴だな。それなのに不思議と嫌な気分にならないのは、既に俺が絆されはじめているからだろうか。

「楽しいから」
「あほくさ」
「……それにさ」

 夏目は視線をうろつかせた後、真っ直ぐ俺を見返した。

「チームを作ったらさ、チームが居場所になるんだよ。今はただ暇つぶしがてら集まってるだけの集団だけど、チームってだけでまた集まるっていう約束になるんだ。それってすげーことだと思わねぇ?」

 ただいまって言ったらおかえり、なんてさ。最高だろ。

 夏目の話に、頬を緩める。

「それは確かに、最高だな」
「だろ」

 クスクスと笑いを零す。何もおかしくないのに、やけに楽しかった。こうして何も考えずに笑うのはいつぶりだろう。

「……俺、」

 夏目はぽつりと告げる。

「あの夜、あそこにいたのが赤じゃなくて桜楠だったら、助けは求めなかった」

 それは絶対。
 そう呟いた夏目が大人びえて見えて。ほんの少し、面白くなかった俺はふぅんと返事し、言葉を続けた。

「そりゃ。光栄なことだな、青」
「〜〜〜ッ!!? しッッぶかわさん!!!!」

 途端、叫びだした夏目……もとい青に笑いが誘われる。肩を震わせ笑う俺に、渋川さんはほっと息を吐く。

「よかった」
「……、うん」
「赤ッ!! チーム名は何にする!? やっぱ色系で合わせたいよなー!」
「名前?」

 決めるのか? ますますかっこ悪くないか?

 張り切る夏目にそうも言えず、曖昧に濁す。

「Colorとかどうだ? よくね?」
「いや、」

 否定したのは無意識だった。名前なんかなんでもいい。そう思っていたけれど。

「Coloredが、いい」

 行く先々が、俺達の色で彩られますように。そう思うから。
 理由も言わずにそう主張する俺の目を、青はじっと見つめる。そっか、と柔く呟いた青は、うんと言って頷く。

「そうしようか」

 たった一言なのに、頷いてくれたことが嬉しくて。

「……うん」

 声は呆れるほどに掠れていた。






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