あの夏の日を忘れない
57
 あら、という渋川さんの声に顔を上げる。俺の視線に気付いた渋川さんは、ほらと声の理由を話し出す。

「この時間、いつもあの子たち来るじゃない? 今日は来ないなって」

 言われて時計を見ると、確かにいつもなら夏目達がとっくに来ている時間だ。夏目は来たり来なかったりまちまちだが、あとの二人がビードロに顔を出さないのは珍しい。

「……珍しいですね」
「気になる?」
「……よく、分かんねぇ」

 料理する手を止めずに答える。ビードロに立ち寄る彼らと話すことはあるものの、友達という訳ではない。

「気に、なってない……と思います。多分」

 そう、と薄く微笑む渋川さんに頷き、完成した料理を差し出す。渋川さんはキッチンカウンターから料理を手に取ると、注文した客の方へと運んでいく。一息吐くと、店のベルの鳴る音がする。会話から察するに、仕事帰りのサラリーマンか。

「それにしてもさぁ、」

 席に腰を落ち着けながら男性は話し出す。

「さっきの喧嘩? ヤバかったよな」
「あぁ、ありゃもはやリンチだな。ったく、既に決着もついてるだろうに三人をあんなに甚振るかね」

 コートを脱ぎながら、苦々しそうに返事が返る。三人、というワードで手が止まった。考えすぎだと首を振るも、その三人が夏目達に思えて仕方ない。

「……っ、渋川さん」
「ん?」
「ちょっと休憩もらいます」

 胸のあたりがそわそわして落ち着かない。不思議とじっとしていることができなくて、俺は思わずエプロンを外した。

「うん、いってらっしゃい」
「!」

 驚いて渋川さんを見つめ返す。まだ三人を探しに行くとは言っていないのに、なぜ分かったんだろう。渋川さんは俺の表情にふっと口元を緩める。

「見れば分かるわ」

 エプロンを受けとった渋川さんは、怪我しちゃダメよと微笑んだ。

「……いって、きます」

 久しぶりに口にした挨拶は不格好に崩れていた。声は震えていなかっただろうか。思い起こすと恥ずかしい。

 ドアを開けるとからんと音が鳴る。彼らと出会った日のごとく、月は煌々と輝いていた。

***

 喧噪の中心へと駆ける。存外騒動は大きいようで、小走りで逃げている人もいれば遠巻きに見守る人もいる。骨と骨のぶつかる音。ぶち、と皮膚の切れる音。濁った悲鳴がうめき声のように地面を這う。人混みをかき分けて前に出る。

「おいッ! おらッ、おら!! もう終わりか?! へばってんじゃねーよッ!!」
「ほらあと三十! いっか〜い! にぃか〜い!」

 カウントに合わせて倒れている誰かの腹に蹴りが入る。三回と言葉が続くより早く、俺は間に入り込んだ。

「ッ誰だ!」
「っ、」

 腕で蹴りを受け止める。衝撃を流すように後ずさる。背後に視線を送ると知らない顔が三つあった。よかった、どうやら俺の知ってる三人ではないようだ。

 ……よかった?

 ほっと息を吐いた自分に首を傾げる。考え事はそう長くは続かなかった。激昂した男が再び足を蹴り上げたからだ。軌道をはっきりと目で捉えた。軌道を遮るように上から足で押さえつける。男の後ろから仲間らしき男が拳を振りかざす。拳を咄嗟に受け止め、自分の体の方へと引く。バランスを崩した男の足を払い、地面に転ばせる。

 あとはもう乱戦状態だ。背に三人を庇い、ひたすら相手を転がす。転がした先から仲間が増えていくものだから地味にきつい。

「おい、立てるか!」

 背中越しに話しかける。言葉にならないうめき声を上げた三人は、のろのろと顔を上げる。体を丸める素振りから見て、まだ立つのは難しそうだ。クソ、庇わなくてもいいならなんとかなるんだが。

 どこで援軍を呼んでいるのかは分からないが、鉄パイプを持ってるやつまでいて、骨が折れる。治安の悪さゆえに警察もチンピラ同士の喧嘩は基本放置だ。日常茶飯事の騒動のために仕事を増やすのが嫌なのだろう。暫くもすれば取り繕うために来るかもしれないが、この場合家に連絡は行くのだろうか。考えて思わずげんなりとする。

 意識をよそにやっているのが仇となったのか。背後に気配を感じて振り返る。眼前に、バットが迫っていた。

「あ、ぶねっ!」
「っ」

 耳馴染みのある声。ギャィンッ! バットが地面を抉る。誰かが体当たりで逃がしてくれたのだと気付いた俺は、声の正体に絶句した。

「……夏目?」
「やっほぅ。元気か?」
「……、」

 緊張感のない問いかけを無視して立ち上がる。地面を叩きつけたことで手が痺れたのか、襲撃者は動きが鈍い。

「椎名、なんでこんなとこいるんだ? ビードロは? 今日は休みなのか?」
「……うるっせぇ」

 ぷいと顔を背けると、同じく緊張感のない残りの二人組が合流する。……つまり、三人とも何事もなく無事だったということだ。
 喜ばしい筈なのになぜだか腹立たしい。途端に不機嫌になった俺に、夏目はうん? と首を傾げる。

「あ。もしかして俺らを探しにここまで来たとか!」
「!」
「ってま、そんな訳……」

 無言で拳を振るう俺を茶化そうとしたのか。夏目が口にした言葉は思い切り図星で。かぁ、と体温が上がる。不自然に区切れた言葉を不思議に思えば、夏目はじっとこちらを見ていた。

「……マジ?」

 端的な問いかけに目を釣り上げる。

「……何がだ」

 声は思った以上に低く出た。夏目はびくりと肩を揺らしながら、襲撃者を次々といなしていく。視界の端の方ではチビとモヒカンの二人も奮闘している。お陰でもうじき決着は付きそうだ。

「いや! えっ、マジで俺達のこと探してくれたの!? 椎名が!?」
「探してねーようるせぇな!」
「顔赤いじゃん! 絶対探してたじゃん! で、俺達かと思ってこいつら庇ったんでしょ!?」
「黙って手ぇ動かせ! 休憩だよッ! 休憩中にたまたまこっちに来たら喧嘩してて巻き込まれたんだよバーカッ!」

 恥ずかしさを散らすように拳を振るう。おら、と横から来た男の肩を掴み、ひらりと宙を回転する。送り出すように背を押し出すと、もう一人の襲撃者に衝突する。濁った悲鳴が聞こえた。

 ざり、とコンクリートをにじり近寄る。

「ひっ」
「……」

 怯えた視線を向けられ、眉を顰める。散々嬲っておきながら自分がされるのは嫌と来た。その甘えた姿勢が酷く腹立たしい。

「赤い、狼……」

 ぽつりと男は口にする。
 長い襟足に、彩る返り血。背後には輝く月。なるほど、言い得て妙である。

「……さっさと散れ。俺達の勝ちだ」
「はっはいッ!」

 怯えた返事を皮切りに襲撃者は次々と立ち去り、騒ぎは収束を迎えた。にやにやと頬を緩めた夏目は、俺の肩に腕を回した。

「椎名ぁ。俺達って言った? 今、俺達って言ったよな?」
「……言ってない」

 言ってないと否定しているのに、夏目は堪える様子もなく嬉しそうに絡みついてくる。

「……邪魔。もう休憩上がるから、」

 抱きつくなと続けるはずだった言葉は、途中で途切れた。視線が一つに集中する。車道を挟んだ向かいの通り。嫌というほど目にした人影は、ついと視線を外して黒スーツの男に声をかける。

「……甲斐?」
「ん? どうした」

 夏目が問いを投げる。甲斐は黒スーツの人物と路地へと入っていった。

「いや、なんでも」

 甲斐はあのスーツの男とどういう関係なのだろう。気質の空気感ではなかった。

 ――極道の連中には関わらないようにしなよ。

「……、」

 やめよう。俺には関係のないことだ。思考を断ち、ビードロへと歩き出す。甲斐の態度が変わったのは、その翌日のことだった。
  





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