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「サボッてばっかなら尚更そういうのはやっておいた方が良いぞ」
「・・・うん」
「てかあんまりサボるなよ」
「南郷さん、手伝ってよ」
「何を」
「宿題」
「あぁ、いいぞ」
子供らしいことを言うアカギに思わず南郷は笑みを浮かべて振り返った。
アカギは端に寄せていた麻鞄を引き寄せている。
「宿題、何が出たんだ」
「漢字の書き取り」
「へぇ、簡単じゃないか。まぁ中学だもんな」
「・・・辞典ある?」
「そんなもん要らないだろ。どれ、見せてみろ」
アカギは鞄の中からシンプルな冊子を取り出して台所へ向かい、ページを捲って南郷に差し出した。
そこには少し難しい漢字がいくつか並んでいる。
「ん?」
「その漢字を使う単語と、それの意味を書いてこいって」
「そ、そうか。あー・・・」
一つ目は『饉』。
既にこの時点で南郷は読めない。
いや、見たことはあるのだが、いざこれ一文字だけ出されても何も出てこない。
新聞を読んでいてもそんなものである。単語としては理解していても、分解されると分からなくなる。
「・・・」
「・・・」
短い沈黙。
グツグツと煮えたぎる鍋の音だけが空しく響く。
「あー、いや、えー」
「やっぱ自分でやるよ」
「も、もうすぐ飯できるぞー」
誤魔化しきれていない南郷の必死な笑顔にアカギは肩を竦めた。
そのとき不意に誰かが扉をノックする音が部屋に響いた。
「は、はい!」
すると扉の向こうから「南郷さん、電話来てますよ」と言う少し掠れた男の声が聞こえた。
「え、あ、すぐ行きます!」
そう返すと、注意しなければ聞こえない程度の小さな足音が部屋の前から去っていく。
南郷はすぐに火を止めて、アカギを見た。
「ちょっと行ってくる」
「今の誰」
「大家さんだよ。一階の逆端に住んでるんだ」
「へぇ」
このアパート内で電話があるのは大家の部屋だけで、住人の連絡先はそこになっている。掛かってくれば当然出るのは大家で、呼び出しをしてもらうのだ。この時代ではこういった形式での電話が普通である。
「あ、ついでに辞典借りてくるよ」
そう言うと南郷は部屋を出て、隣の部屋の扉を通り過ぎ、大家の元へ向かった。
大家の部屋の扉は少し開けてあり、挨拶をしながら中に入る。
「すいません」
「あぁいいよ。安岡さんって人から」
大家は人の良さそうな初老の男性で、そう南郷に告げれば部屋の奥に入っていった。
玄関のすぐ横に置かれている黒電話は、靴を脱がなくても手に取れる場所に設置されている。
安岡からの電話。
恐らくは次の勝負のことだろう。
きっと話が纏まったのだ。
今更ながら少し腰が引けた。
だが進んでしまったものは仕方がない。南郷は受話器を取って耳に当てる。
「はい代わりました。南郷です」
『あぁ、南郷さん。俺だ、安岡だ』
「この前はどうも、世話になりまして」
『いやいや』
安岡は人好きのしない笑いを電話向こうで零した。
「それで、今日は』
『決まってるだろ。アカギの次の勝負だよ』
「あぁ、はい」
『なんだ、あまり乗り気じゃないな』
「そういうわけじゃないんですがね、大丈夫なんですか」
『ヤクザ相手に大丈夫も何もねぇだろ』
「えぇ」
『まぁとにかくだ、明日の夜会えないか』
「え?」
『電話で話すのもなんだからな。あまり人にも聞かせられん内容だ』
電話の向こうでは、少し遠くで柄の悪そうな声が飛んでいた。あちこちから罵声や激しい物音が聞こえる。
どうやら警察署内から電話をしているようだった。
よくやるよ、と心の中で南郷は悪態をつく。
それから安岡は落ち合う店を指定して、その場所と時間を伝えた。
南郷が了承すれば、機嫌の良さそうな声で「待ってるよ」と付け足す。
「じゃぁ明日」
『あぁ、南郷さん。今のをアカギに伝えること出来るかい』
「え?」
『アンタ分かるだろ。アカギが居るとこ』
「えぇ、まぁ」
『良かったよ。探す手間が省ける』
「この前、連絡先聞かなかったんですか」
てっきり聞いているのだとばかり思っていた。
セッティングしても当の打ち手本人と連絡がつかなければ話にならない。
『いや聞いたんだけどね、連絡先は無いって言うもんだから』
「え」
『学校は分かるんだが、さすがになぁ』
「はぁ」
『何日かはあの辺ぶらついてるから探してくれと言うんだ、あのガキ』
アカギの言いそうな事だ。
『アンタ追いかけて行ったし、あの後どこ行ったか分かるだろうと思ってな』
分かるも何も、ここに居る。
「アイツなら今、うちに居ますよ」
『・・・え』
「行くとこ無いって言うもんだから」
『アンタんとこに!?』
「はぁ」
『南郷さん、アンタ、あいつ囲ってるのかい』
「妙な言い方しないでくださいよ。帰るとこないって言うから、連れてきただけです」
『そりゃ、また、難儀なこった』
「そうですか?」
安岡の予想通りであった。
アカギの行き先ではなく、南郷が苦労を背負うだろうということがだ。
そういう男だと思ってはいたが、こうも易々とアカギを家に引き入れてる事実を知ると、同情を通り越して呆れてしまう。
いやある意味で強運か。
アカギは確かにトラブルの種かもしれないが、幸運の種でもあるのだから。
『まぁいい。とにかく明日の夜、待ってるよ。アカギにも伝えてくれ』
「はい」
『じゃぁな』
そして電話は切れた。
南郷は大家に礼を言い、電話代を置いていく。
部屋に戻ろうとしたところで、辞典のことを思い出した。かろうじて大家にそれを伝えることが出来た南郷は、漢字字典は無かったが、古い国語辞典はあったようで、それを手に今度こそ部屋に戻る。
すると寝転がりながら待っていたアカギがパッと顔を上げて、南郷を見た。
やはり猫のようだと、昨晩も感じたことをまた思う。
ウゴキダスカゼ