01


 伝説の夜が終わった。

 否、これは始まりに過ぎない。

 雀荘『みどり』を出てから南郷は、静かに去っていくアカギの背を見送っていた。
 妙に落ち着かない気持ちになる。
 一体どこへ帰るのだろうと、何故か心配でならない。
 元が面倒見の良い性もあるだろうが、彼は南郷にとっては命の恩人なのだ。
 アイツは帰る所があるのだろうか。もし無いのならこれからアイツはどうなるのだろう。
 数日後に再び会えるのは分かっていたが、今これからのアカギが気になった。
 『みどり』の前から動かない南郷を見ていた安岡が、銜えていた煙草を足元に投げ捨てつつ溜息をつく。

「南郷さんよ」
「あ、はぁ」

 南郷はようやく視線を、小さくなっていくアカギの背から離す。
 安岡は、まだ紫煙のくゆる煙草の先を靴の底で踏み潰しながら南郷を見た。

「気になるんなら追っかけたらどうだい」
「・・・」
「俺はアイツが次の勝負にさえ来てくれりゃぁどうでも良い」
「アンタ、それでも警察か?」

 ついさっきまで借金に殺されかけていた男があまりに真っ当なことを言うので、安岡は思わず笑ってしまった。
 それがまた南郷の癪に障ったようだった。

「アイツはまだ子供なんだぞ。中学生が一人であんなっ・・・」
「お?あれはアンタの甥っ子なんじゃなかったのか?」
「っ・・」
「まぁ今更そんなことはどうでも良い」

 安岡は面倒そうに頭をボリボリと掻いた。

「所詮あーいった野良は、どうとでも生きていくもんさ。その代わり、どうとでもコロリと逝っちまうがな」
「野良・・・」
「人には懐きゃしねぇ。特定の誰かには絶対にな。呼び止めても仕方ねぇさ。留まるもんじゃねぇんだよ。野良は」
「野良、猫、ですか」
「あぁそうかもな。あのツリ目は確かに猫だ」

 安岡は可笑しそうにクツクツと笑う。

「いや、狐のが近いか?」
「俺はよく、野良猫に懐かれます」
「そんな感じするなぁ、アンタ」
「餌もよくやるし、いつも同じ野良がやってくる」
「でもそのうち、来なくなるだろう?」
「・・・」
「まぁ好きにすりゃいいさ。話が決まったらとにかく連絡するからよ」

 そう言った安岡が背を向ける前に、南郷は走り出していた。
 その背を見ながら安岡は静かに溜息をつく。

「ありゃ苦労するな。そういう男だ」

 顎に生えている無精髭を撫でながら安岡は、南郷が走って行ったのとは逆方向へと踵を返し、歩き始めた。
 南郷はと言えば、見失ったアカギを探して辺りを見回しながら走り続けている。
 子供の足で、しかも歩きだ。
 そう遠くへ行っていないはずだと、南郷は目を凝らして少年を探した。
 少しすれば難なくアカギの姿を見つけることが出来た。
 目的地があるのかないのか、少年は静かに、迷う様子もなくただ歩いている。
 立ち止まる素振りもない。
 もしかしてこいつにはちゃんと帰る家があるんじゃなかろうか、追いかけてきたのは要らぬ世話だったのではないだろうか、と南郷は少し戸惑ったが、存在を感じさせないほどに静かに歩むその背中に心臓が鳴った。
 不安が押し寄せた。
 思わず離れた場所から名を叫ぶ。

「アカギっ!」

 ピタリ、と。
 その静かな歩みが止まった。
 まるで初めて少年が現実の世界に現れたように感じた。
 ゆっくりとこちらを振り返る間に、既に南郷は少年に走り寄っていて、自分を呼んだ男が誰なのかを知った少年は、少しだけ驚いているようだった。

「どうしたの、南郷さん」
「あ、あぁ、いや、その」
「そんなに走って」
「え、あ、あの、だな」
「俺に何か用?」

 まるで感情の無い、静かな瞳。
 細い線の体躯はまだ成長途中で、酷く華奢だった。
 そんな子供の前でゼェゼェ言っている自分の様は滑稽かもしれないと、頭の片隅で南郷は思った。

「お前、その、どこ行くつもりだ」
「え?」
「帰るとこ、は・・・」
「ないよ」

 南郷の予想は間違っていなかった。
 では何故この、どこに行くとも知れない少年は、淀みなく歩いていられたのだろう。

「じゃぁ、どこに向かってたんだ今」
「別に。どこにも」
「どこにもって・・・」
「適当に寝れるとこ、あればいいから」
「アカギ、お前どんな生活してんだよ」
「関係ないよ」
「・・・」
「用が無いなら、行くね」
「あ、待っ、待て待て」
「何?次の『麻雀』なら、決まればちゃんと行くよ?」
「そう、じゃ、なくて」

 南郷は、目の前の少年が『麻雀』という単語に、妙な熱を含んでいるのが分かった。
 ついさっき知ったばかりの新しい賭け事に、少年は何を見出したというのだろう。
 いや、麻雀ではなくても良いのだろう。
 事実かどうかは知らないが、聞けば昨夜はチキンランをしていたとか。
 命の賭け事が、この少年の瞳に赤い焔を灯す。
 勝負の最中、一瞬ゾッとすることが南郷は何度もあった。
 本当にこれが十三のガキの持つモノなのかと、自分の目を疑った。

「南郷さん、どうしたのさ」
「な、なぁ、俺の家に、来ないか」
「・・・」

 少年の時折放つ赤い焔も、尋常じゃない肝も、今はどうでも良い。
 まだ十三の子供なのだ。
 南郷にとって今重要なのはそこだけだった。
 放ってはおけない。
 幸いにも借金苦からは脱したのだ。
 少しくらいガキを世話してもやっていける。
 そう、少しなら。

「どうして」
「どうして、って・・・お前、帰るとこ、ないんだろ」
「うん」
「子供が、家もなく、ウロウロするもんじゃ、ない、だろ」
「そうなの?」
「そ、そうさ。俺は一応お前の叔父ってことになってるんだし、安岡さんの手前、ほら、お前を世話しておかないと」
「あぁ、フリってこと?」
「そういうわけじゃっ、ないが・・・」
「それなら要らないよ。あの刑事さん、そんなこと気にしてないでしょ。俺らが赤の他人だってことも分かってるさ」
「・・・」

 勘の良い子供だと、改めて思った。

「だがなぁ、アカギ」

 アカギは途端にクックッと肩を揺らして小さく笑い始めた。
 南郷は何が面白いのか分からず怪訝にアカギを見詰めるしか出来ない。

「でも俺も今は眠りたいし、南郷さんが良いなら、行こうかな」
「え」
「ダメなの?」
「いやっ!来い来い!」

 勢い良くそう返してくる南郷にまたアカギは笑う。

「なんだよアカギ」
「何でもないよ。ただ・・・」
「ただ?」
「アンタって見た目通りの人だね」
「はぁ?」
「気にしないで」

 南郷は首を傾げたが、アカギは何事も無かったように目元を擦りつつ小さな欠伸を漏らしている。

「こっから近いの?南郷さんち」
「あぁ。歩いて行ける距離だ」
「そう」
「行こう」

 歩き出した南郷の後ろを、少年は静かに付いて行く。
 朝方の町はまだ起き出したばかりで、朝刊配達や牛乳配達、仕込みの早い豆腐屋などしか動いてはいない。
 静かだが、昨晩の雀荘の世界からは遠く離れた、人の生きる世界だった。
 南郷は改めて自分が危機を脱したことを実感する。
 だが後ろを振り返ればそこに、昨晩の狂気の世界があることを知っていた。
 アカギという名の少年は、人の生きるこの世界では浮き立っているように見えてしまう。

「・・・何?」

 後ろを見ながら歩いていた南郷に気付いたアカギが片眉を上げて問う。
 南郷は慌てて顔を前に戻した。

「何でもないっ」
「・・・」

 そのまま暫く歩けば南郷の住むアパートが見えてきた。
 さすがに南郷も眠気に襲われてくる。
 それから部屋の中のことを考えた。
 狭いが何とか二人寝れるだろうと考えながら、アカギの方を軽く振り返る。
 少年は色の無い瞳を南郷の足元に向けながら歩いていた。

「アカギ、もうすぐだぞ」
「そう」
「かなり狭いが、まぁ寝るぐらいなら出来る」
「ふぅん」
「腹は減ってないか?」
「減ってる」
「冷蔵庫空だぞ。何か食ってくか」
「とりあえず寝たい」
「あぁ、そうか。そうだよな」

 それには賛成だったので、南郷は特に何も買わずアパートに向かった。
 二階立てで全六部屋の小さな古い建物。南郷の部屋はその一階の右端だった。
 部屋の前まで来ると南郷が鍵を開けて中にアカギを通す。
 玄関にくっついている小さな台所と、その奥に便所らしき扉。
 立て付けが悪く常に開けたままのガラス戸の先には4畳半の小さな部屋と、押入れ。
 典型的な貧乏アパートだった。
 独身男の一人暮らしを絵にしたような部屋である。
 出しっ放しで潰れている布団に、流しには溜まった洗い物。ビール缶が並ぶちゃぶ台や、女性の裸が表紙を飾る男性誌、それと、小さなラジオ。
 部屋の角に配置されている二段だけの棚の下側には小説が何冊か並んでいるが、恐らくは長いこと手に取られてもいないのだろう。頭に埃を被っていた。
 先に入っていた南郷は改めて己の部屋の酷さに気付いたが、アカギは特に何を言うでもなく、玄関から一通り見回せば無言で部屋の方に入っていった。

「わ、悪いな、汚くて」
「別に」
「やっぱ一人もんだと掃除とかあんましないからな」
「言うほど酷かないよ」
「そ、そうか」
「あぁ」
「お茶でも飲むか?」

 煙草と財布をポケットから出しながら聞いてきた南郷に、アカギはまるで、飲めるようなお茶があるのか、と問うような視線を向けた。
 いや、事実そんなことをアカギが思っていたわけでは無いのだが、南郷にはそう見えたようで、持っていた物を適当に放り投げながら台所へ向かおうとする。

「お茶っ葉くらい、あるぞ」
「いらない」
「そう、か」
「それより、ここ、いい?」
「へ?」
「寝てもいい?」

 少年は突っ立ったまま、白い指先で自分の足元を指していた。
 そこには敷かれたままの南郷の布団。掛け布団は端に追い遣られている。
 アカギは既にその上に乗っていたのだ。

「一応客用の布団あるから、そっち出すよ」
「いいよ」
「でもそれずっと出しっ放しので」
「いいから」

 言うとアカギは、許可を求めたにも関わらず了承を得る前にそこに横になった。
 パタリとほぼ倒れるように(だが軽そうなその身体は酷く柔らかく落ちたように見えた)、そのままうつ伏せになると掛け布団を羽織ることもなく目を閉じた。

「え?おい、アカギ」

 まるで死んだように動かなくなった少年の白い顔に、南郷は一気に不安になった。
 慌てて駆け寄り、横を向いている顔を覗き込む。
 すると小さくではあるが安らかな寝息が聞こえてきた。
 よく見れば背中もゆっくりと上下していて、南郷は自然と安堵の息を吐いた。

ハジマリハオダヤカニ

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