音石明は混乱していた。

ゆうべ、いや、今朝方まで頭の中を跳ね回ってギターを破壊していた自分の音楽性がまったくもって性質を変えてしまったのだ。ギターを抱えてみても思い浮かぶメロディはロックのそれではどう考えても無い。試しに長く伸ばした髪をぐしゃぐしゃに振り乱してみたがそれでもやはり、彼の頭の中に流れてくるのはゆったりとした、まるでワルツのようなバラードのような、ピアノで奏でたような細い音色ばかりだった。

原因不明、というわけではない。音石には『間違いないッ!』と言える心当たりがあった。たった今、自分と一緒に電車に揺られてうつらうつらしているあの女……女性だ。
別に音石は恋をした事が無かったわけでもなくむしろそれの多い方だったが、今までにそんなメロディーの恋をしたことは無かった。彼女のおっとりした雰囲気がそうさせるのかはまったくもって定かでは無かったがとにかく音石明は今までに無い経験にショックを受けたのだった。

だが、そう混乱ばかりしていても仕方が無い。音石明は直感に身を任せるたちだった。昼間のスカスカの電車、女性の両隣は空いている。そのうちの右側に音石は座った。ぐしゃぐしゃのままの髪を雑に手ぐしで整えたところで、正面でスポーツ新聞の上から自分を見るオヤジと目が合った。ウザかったのでほんの少し感電させてやると、ひぐっとか言ったきり気絶した。

これで邪魔物はいない。音石は、左隣の女性の顔を横目でちらりと見た。
寝顔が、自分と同い年ほどにも見える位に幼い。音石の頭の中のBGMのボリュームが上がった。今すぐにでもギターをケースから取り出したい欲求を抑えて、音石は女性の肩を軽く二度叩いた。
「なあ、おい、あんた」
「……………あ、え?」
半開きのままの目で音石を見上げてから、女性はきょろきょろとあたりを見渡す。
「あ、よかった……」
「名前は?」
「え?」
「あんたの名前は?」
杜王の穏やかな風景がそこそこの速度で流れていくのと同じくらいのペースで女性は首を傾げた。ほんの少し見開かれた目に見上げられて耐え切れなくなった音石が先程のオヤジにもう一度電気ショックをくらわせる。オヤジの体と一緒に女性の体も驚きでびくりと跳ねた。
「あの、どちらさま……」
「音石明」
「はあ……初めまして。苗字名前です」
「名前か……」
「………?」
その名前が若干引いているのにも気づかずに、音石は彼女の手を掴んでうっとりと目を閉じた。
音石が、電車を止めしばらく名前を独占する事に決めたのはその直後だった。


20090808





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